歌人の学歴/石川美南に教わること/この最高の履歴書の短歌

いい大人が学歴の話をするのはどうかと思うが、ポイントは、学歴にない。
短歌の世界をぐるりと見まわすと、高学歴の人が多く、わたしなどは、それこそいい大人なのに劣等感を覚えることがある。
こういうことだ。
学歴が高くないような人は、結局、歌は上手になれないのか。

もちろんそんなことはない。
ないし、逆に、学歴が高いような人こそ、それが邪魔をして、短歌は作れない、なんてこともあろうかと。
これくらいならできそうだ、となっても、もっと上手になるのにどれだけの労力が要るか、その労力に見合う何を得られるのか、余人よりよく見通して、短歌は要らないな、と。
事実、人生の功利に、短歌の、ありていに言えば、なんとコスパの悪いことか。

もう一つ。
非高学歴者に無礼を承知で、しかし、これは現実の話として、高学歴ともなれば、同じ位相にいる人々の知的好奇心は、非高学歴者よりもやはりずっとあるのではないかと。
自ずと、短歌なんて世界の入り口の前に立つ機会は、多くなってもこようか。

短歌の世界に高学歴な人が分布するのは、このように、そもそもが、高学歴の構成比が多く占める仕組みでもあるかである。

高学歴者が、短歌の世界の入り口に立ちました、と。功利の計算を経て、なのに、実際に、歌を作ってもみました、と。
すでにして、それは、ものになる短歌だったか。早々とものになる短歌を作っている、として、しかし、ものになるレベルの短歌を普遍的に作ってこられたのか。

働いたこと長い人はよく知っていようが、新卒の若者が、たとえば営業で、その成績は群を抜いて、社会の高い評価を早々と得てしまう。が、そんなものは、いつまでも続かない。
会社は期待して、その若者に、困難な市場を任せてみる。これまではこっちに有利な市場だった、という面がなくもなかった。
それが、ますます瞠目する姿は見られないばかりか、情熱を失う様を、やがて目にすることが待っている。
なんてことはいくらでもあるのである。
この社会は海千山千の跋扈する世界で、そこを、うまくいかない時にどうすればいいか、その経験を、今こそこれでもかとするべき時だったのである。その経験をさせるための異動でもあったろうに。

難関大学だからとて、いや、難関大学の学生に限って、と言ってもいいくらいだった。
トホホな話しかできない子が、学力に恵まれていたであろう層にあることを、新卒者の面接で、わたしは、知ったことがある。
そんなことくらいわたしなんかよりずっとよく知っていように、難関大学の人にしか門戸を開かない企業が、この国に珍しくない。
なぜ。
ついさっきまで学生に過ぎない若い子に期待できるだけの何がある。が、難関大学の子たちは、そこに合格するまで努力を放棄しなかった。そこだけは、さしあたり確かな実績なのである。
とまあそんなところではないか。

点や線の集合のパターンを数学的に構造化できるまでねばった子たちだ。
日本史では、壇ノ浦の次は鎌倉幕府、そのような直線的な暗記に落ちないで、外交と軍事を背景に朝廷の経済基盤の推移をわかりやすく説明できるまでねばった子たちだ。

されば、短歌が好きになって、なのに上手に作れなければ、そこで誰よりもねばるしかないことを知っているのだろう。

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短歌の世界をぐるりと見まわすと、高学歴の人が多いことに気がつくが、なに、高学歴うんぬんの前に、ここでねばる、ということをよく知っている人が、短歌を継続している人に多い、というだけなのではないか。

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次のような企画があった。
「短歌探求」編集部ブログが、第54回(2011)短歌研究新人賞の落選展を開催した。
わたしはまだ短歌の世界に入っていなかった時のことで、だいぶ年数を経てから読んだが、わたしは、この企画に、まったく反対しない。
とにかく何でも試してみることでまた一歩前進できる、といったタイプの人には、一つの経験になる。
(ただし、今、これと同じ企画があっても、わたしは、参加しない。連作の公募の新人賞に応募していないのであれば、参加するにも、提出できるシロモノがない)

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この企画に、石川美南が、このような発言をなさっておられた。

(前略)
私も賞には何度も応募しているし、何度も落選しているので、自分の作品を大切にしたい気持ちは痛いほどよくわかります。ただ、作品を読んでもらう喜びを安易に得ず、信頼できる読み手に届くまで粘ることが、最終的には自分のためになるんじゃないかと、私は思ってます。
(後略)

「短歌探求」編集部ブログ
2011年 09月 01日
石川美南さんからのメールと編集部からのお返事
より

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物事なべて、石川美南の、このような考え方がベストなのかどうか、その結論は出せないが、わたしのこれまで見聞してきたことに照らせば、であるが、要するにねばった体験の果てに、反応なんてすぐに得られないことの価値が見えてくることはある。
ということを、短歌の世界で説得したのが、石川美南の、この発言である。
先々を、石川美南の言っている通りに投稿していきたい、となったものだ。
短歌において、わたしは、今でも、石川美南の発言を金科玉条にしている。

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石川美南と言えば、この道の大先輩で、詳しくは踏み込まないが、短歌の、多くの活動を、精力的になさっておられる。そしてまた、実績も人気もおありである。
そんな人をナンであるが、すばらしく魅力的な若者である。

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<朗らか>と書いて採用されたこと 乗り換へ駅に本を買ひ足す(石川美南)

KADOKAWA『短歌』
2014.10月
「朗らか」より

不採用を何回か、あるいは、何回も経験したのだろう。
履歴書のどこかにご自分の性格は朗らかであることを記載してみた。
採用された。
もちろん嬉しかった。駅中の書店で本まで買ってしまうほどに。

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読み返す。

<朗らか>と書いて採用されたこと 乗り換へ駅に本を買ひ足す(石川美南)

氏名の欄に石川美南と記入する若い子の、その学歴がいかほどか、この一首ではわからない。
が、面接してみて、実際に「朗らか」であれば、この「朗らか」は、学歴よりもずっと確かな、かつ最高の履歴ではないだろうか。
事実、採用に至っている。
学んで身に付くことではないのである。されど、自分をしつけないとホンモノにできない。
わが短歌経験において、石川美南の、この短歌は、五指に屈する傑作の短歌である。

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