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聖書を読むと、イエス・キリストは、その活動の初期に、多くの奇蹟(しるし)を行った。たとえば、パンを5千人に分け与えたそうな。そんな超常現象、いかがわしいカルト組織じゃあるまいし、と思っても責められないだろう。
霊的体験として信じてもいいが、いや、筆者(式守)には無理な話だが、こう考えてみるのであれば無理ではない。
ほんとうはみんな少しはパンを持っていた、と。イエスに導かれて、オレも、アタシもとみんでパンを分け合ったのだ、と。
話題の人になったイエスに、人々は、奇蹟(しるし)ばかり求めて群がった。
イエスは悲嘆した。
2
歌人・服部真里子さんの『行け広野へと』を読んで、わたくし式守は、その「悲嘆」の裏側にある、イエスの真実の姿を見せてもらった気がした。
キング・オブ・キングス死への歩みでも踵から金の砂をこぼして(服部真里子)
本阿弥書店
『行け広野へと』
(キング・オブ・キングス)
「王の王」は、『ヨハネの黙示録』(19章16節)に、再臨するイエスの姿として記されているものであるが、再臨も何も、イエスは、十字架に磔にされてみじめに死んでしまったではないか。奇蹟(しるし)も何もあったもんじゃない。
イエスは、目に見える証拠ばかりを欲しがる群衆に、「なぜ、しるしばかりを求めるのか」と深く嘆いていた。
が、イエスの人生は、絶望の旅ではなかった。
死という十字架に向かっておられたが、一歩一歩、その踵は、目に見える奇蹟よりもはるかに尊い「金の砂」をこぼして、後世にも、ある種の人々には、その足元を静かに照らしている。
イエスは、重い皮膚病の人を治したとか。これも、上の、パンを分け与える、のデンでいけば、隔離されて忌み嫌われていた人を囲む目に見えない壁を取り外した、などと解釈することもできようが、それ以前に、当時のユダヤ社会では、重い皮膚病の人に手で触れることなどあり得なかったのである。
なぜ、病が治ることやパンが増える、目に見える(しるし)ばかり人間は望む。たしかにそれで一時的に難は回避される。されど、絶望の底で再び立ち上がるべき人間に、ほんとうの力を持たせるには、そんな(しるし)があってだろうか。
3
服部真里子さんの別の歌に詠まれている、こんな(しるし)だったらどうか。
金印を誰かに捺してやりたくてずっと砂地を行く秋のこと(金印を捺す)
砂地は足跡などすぐ消してしまう。歩みも重くなる行路なのである。
それでもイエスは、絶望的な中で苦しむ人に、神に愛されているという消えない印を誰かに捺してやりたかった。
イエスは歩き続けた。
わたくし式守は、還暦後にこれがあるとは予想もしていなかった難病という重い現実の中に身を置いて、やはり病を抱えている妻を支えたいと日々伴に歩んではいるが、心情的には楽な道ではないのである。
アタリマエではないか。なぜオレなのよ。
しかし、服部真里子さんの作品群と聖書の言葉を重ね合わせて、ある確信を持てた。
色があって色がない砂地のような日々の中にこそ、イエスのようなあり得ない愛は注がれているのではないか。
こんなこっぱずかしいことを臆面もなく直截的に語るのは、筆者の美意識に反するのであるが、朝、仕事に出る前に、「今夜また昨夜のドラマの続きを観よう」と約束を交わす静かなひとコマには、あるいは、神の金印が捺されているのではないか。
4
こんな歌もある。
金印を捺されたような静けさに十月尽の橋わたる人(金印を捺す)
服部真里子さんの、これも、筆者(式守)愛している一首であるが……。
十月の終わり。
筆者にまず、ここがポイントだ。これから冬であること。
人生の秋が深まり、やがて来る冬の橋をわたる。その先に待っているのは、イリュージョンマジックが如き騒がしい奇蹟の音なんかではない。深く、甘美で、揺るぎない静寂だ。
若さと健康を取り戻す奇蹟(しるし)などない。そんなものはなくても、与えられた愛の限りを尽くして静けさの中に身を置きたい。
イエスにとって、最大の奇蹟、そして、イエスその人のただ一つの望みだったものは、ローマへの軍事的勝利や華々しいマジックショーではなかった。絶望してうなだれる者の傍らに座って、そこで共に埃にまみれて、言葉にならない呻きを共有する名もなき無力な振る舞いだった。
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『行け広野へと』の著者・服部真里子さんに心から感謝したい。
イエス・キリストの平安がいつも服部真里子さんとともにありますように。
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