
『短歌往来』2025年9月号を購読。鈴木英子さんの(今月の視点)「享受者としての実り」を、おもしろく読む。
筆者(式守)に劇的な心的変化をもたらした。
鈴木英子さんは、「全日本学生・ジュニア短歌大会」に関わってこられて、これを、「未来へ短歌を繋いでゆく一助にもなっているのではないか」と。
大会運営者の側にこのようなお考えがあることに、背筋が、シャンとなった。
鈴木英子さんは、このような発言もなさっておられた。
以下はその引用である。
「私たちは死後、名前が消えても歌一首が人の口に乗るようなことがあれば幸いだと言ったりする。が、読む人がいなくなれば、残った作品も後の世へ運ばれにくくなる」と。
筆者(式守)もその「幸い」を願っている一人である。そう、せめて一首でもそんなことがあってくれたら。
が、せっかくのそのような一首、たとえば歴史的傑作なんかをものせたとしても、その歴史が途絶えてしまえばどうか。
鈴木英子さんの発言は、短歌ブームだの何だのを外に置いて、また、ビジネスとしての短歌のマーケットについてでもない。
短歌を読み合うことの芯の芯が滅びないのは、畢竟、このような一つ一つの地味な積み重ねなのではないか。わが人生経験に照らしてもそうと思える。“仕事”に強靭な糸が生まれているのはこのようなあり方の人たちだった。職位は高くない。結果も派手なものはない。されど、人々は、そのような人の話に耳を傾けていた。
僭越なのを承知で、「全日本学生・ジュニア短歌大会」一つで、短歌の趨勢は変わらない。しかし、大きな城を支える石一つではある。それは貴重な石である。
わたくし式守、当サイトの運営で、何かを発信することにハードルこそないが、人目が気になることは少なくない。
まず式守では存在が小さいのだ。卑屈になってこう言っているのではない。まず現実を認識しているだけである。
そして、その記事たるや、この歌が好き、この歌集が大好き、ただただ好きであるだけを道筋に積み上げているのである。
が、それでいいではないか、となったのだ。これだって城を支える石になれないか。
「享受者としての実り」(鈴木英子)は、存在が小さいとやらの式守なる一歌人に、小さくない勇気を吹き込んだのである。
式守操
