短歌でつながる/『短歌往来』2025年7月号/安田汐里さん

『短歌往来』2025年7月号の今月の新人をおもしろく読む。
安原汐里さんの紹介。連作「短歌は広がる」掲載。

着物姿の女性の写真がある
   

(前略)
短歌・言葉の楽ししさが、自分の幅が、人とのつながりが広がっていけばいいと思っています。



   連作に添えた
エッセイより
このようなお考えを着物に包んで、安田汐里さんは、連作「短歌は広がる」を制作なさった

連作「短歌は広がる」より二首引く。

仕事して夕飯三品並べたら人間生活できた気がした(安原汐里)

この歌は一人で詠んだ歌じゃない誰かが隣にいて詠める歌(同)

いい歌だ。
筆者(式守)はこんな歌が大好きである。

仕事して夕飯三品並べたら人間生活できた気がした

まず、「人間生活」の用法がおもしろい、と思った。
この一首は、プロレタリア文学ではあるまい。働きづめに働いているのに食パン一枚にもありつけない時代ではない。労働者階級の悲哀の歌ではないのだ。
だが、現代も、働く者の悲哀は、厳然と存在している。働き方改革がいくら推進されてはいても、くたびれはてて帰宅したからだに、「夕飯三品並べ」ることが容易でない日々があるのである。されど、「夕飯三品並べ」ることができれば、その夜は、自分が自分に還ることができる。
一品だって自分を取り戻せよう。が、一品では、「人間生活」の指数はまだまだ低い。よって、この一首の魅力を感じられることに「三品」も与っている。
結句の「気がした」もまたいい。そこまでの意力ではなかったのに、結果的に「三品」になって、これを、「たら」でかるく下句につなげたことで、「人間生活」再現の誇らしさがみずみずしく詠まれた。

この歌は一人で詠んだ歌じゃない誰かが隣にいて詠める歌

そうと確信のつく経験が、ご自分にもおありだったのか。あるいは、ご自分にその経験はないので、であれば、これだけのリアリティは自分に描けない、との歌意なのか。
そうではない。そうではない、と思うのである。
そんなことはどっちでもいいのである。
その歌人に「誰かが隣にい」ることを、安田汐里さんは、慈しんだ。その歌の歌人の顔も声も知らないが、ご本人が言うところの「つながりが広がっ」た、そのことが詠まれた。

上二首、こうも思ったのである。
日常の平凡な場面にご自分を点景に置いて、そこでの気持ちをていねいに詠めば、稠密な調べは生まれるのである。筆者(わたくし式守)は改めてそれを知るに至れた。

安田汐里さんのますますのご活躍をお祈りいたします。ただ無理はなく。カップ麵の夜もいつかは愛しい歴史になりましょう。

式守操