
『短歌往来』2025年6月号の今月の新人をおもしろく読む。
安原櫻岳(やすはらおうがく)さんの紹介。連作「バレエ鑑賞」掲載。
連作ももちろんおもしろく読んだが、その前に……。
(前略)
本業である漢詩文研究が進み、また作歌の感覚も漸く掴めてきた事で、物を詠ずる姿勢や、詩性において両者は深く共通しているのではないか?
(後略)
連作に添えた
エッセイより
短歌の入り口において、筆者(式守)の腹の中に、こんなものはなかったのであるが。と言って、自分の歌歴を否定しているわけではないが。
若い人のこんな声は、その純真な立志に、相手がどれだけ自分より若かろうと膝を屈してしまう。立派な志もあったものだ。腹の中の土壌は準備できた。空から種を今を晩しと待っている。なんて受け身の姿勢ではないわけである。よし、と一歩を踏み出した。
ピースサインが眩しい。
さて、連作「バレエ鑑賞」より二首。
砕かるる桜、とおもふわがこころ斧のかたちの楽曲に触れ(安原櫻岳)
つばさなき踊り子たちは臥せてゐる地球最後の冬の砂漠に(同)
砕かるる桜、とおもふわがこころ斧のかたちの楽曲に触れ
舞台の楽曲が「斧のかたち」と表現された。舞台上で、自然への、その音楽の力は、もはや「斧」であった、ということか。だから「桜」を、その花が散ったと描写しないで、「砕かるる」と表現したのか。
自然の変化は何も静寂ばかりではない。花びらが舞う間を響く音もあろう。それも激しい音の。もちろんそれは実際の音響ではない。「わがこころ」において。
つばさなき踊り子たちは臥せてゐる地球最後の冬の砂漠に
バレリーナは背に翼のあるイメージがある。実際にバレリーナは羽をつけている、と言ってはいない。その舞いによるイメージ。あくまでイメージです。
が、舞台で、今、バレリーナは臥せている、と。そういう演目だったのか。何の舞台だ。何のとは「くるみ割り人形」とか「白鳥の湖」とかそういうこと。
「つばさ」は奪われた。そして、この星に残された場所はもう、ここ「冬の砂漠」しかないようだ。事実ほれ「地球最後」と詠まれているではないか。
これを終末観(と、決まった話ではないが)として、それが浄土教的他力でもキリスト教のイエスの再臨のごときでもいいが、ここに救済を信じたい、となるが……。
バレリーナは死んでしまうのか。救済の供物なのか。
上、筆写(式守)のまことに恣意的な読みに過ぎないが、それが飛躍であろうが、深読みであろうが、歌を読む歓喜の小さくないことに驚きを隠せない。漢詩文学者であられるのを、ひらがなと漢字の絶妙なバランスと負荷の軽い文語体によって、その歓喜は得られた。
ように思えた。
安原櫻岳さんのますますのご活躍をお祈りしたい。研究との両立はさぞおたいへんかと。ご無理なく、と申し上げたい。心よりの声援を送らせていただきます。
式守操