
『短歌往来』2025年6月号を購読。喜多弘樹氏のエッセイ「一言で世界をうたへ」をおもしろく読む。喜多氏は、米田(こめだ)靖子さんの『吉野の風――前登志夫』を貴重な論考として、同書に引用の次の一首をこのエッセイに引く。
一言で世界をうたへ、葛城の山にむかへるわれといふ他者(前登志夫)
一言主を詠んだ一首である、と。
続けて、その論考に引用の『山河慟哭』(前登志夫)の言葉も引いた。
世界の前に自己を投げ出す決意は、己を他者として認識することでもある
前登志夫
『山河慟哭』より
なるほど。
たとえば、歌人のどなたかを、でもいいし、無作為に選んだ歌でもいいが、それを評することは、畢竟、自分を語っているものだ。
との趣旨の話はよく聞く。わたしも、自己と他者について、その認識は、この域内に収まる。
これをもっと踏み込むと、小林秀雄になろうか。
批評の対象が己である他人であるとは一つの事であって二つの事ではない。批評とは竟(つい)に己の夢を懐疑的に語ることではないのか!
小林秀雄
「様々なる意匠」より
制作と批評は表裏一体で、小林秀雄の言葉で足りていようが、こと歌の制作ピンポイントで別の言い方はないのか、もどかしいものがなくはなかった。この度、喜多弘樹氏のエッセイで、自己と他者について、そのあたりの苛立たしさが晴れた。
葛城の山。一言主の神。古事記の中で有名な話である。
時の雄略天皇が「さあ、それでは名を名乗れ。お互いに名乗り合ったうえで矢を放とう」と。「それではこちらの名まえもあかそう。私は悪いことにもただ一言、いいことにも一言だけお告げをくだす」と。「葛城山の一言主神である」と。
雄略天皇は、これに驚いて、太刀や弓矢、お供一同の青ずりの着物も、一言主神へ献上なさったそうな。
ここで前登志夫の先の一首を改めて読み返す。
一言で世界をうたへ、葛城の山にむかへるわれといふ他者(前登志夫)
この一首に次の2点を並べてみる。
〇 自己を投げ出す決意は、己を他者として認識すること
〇 己であると他人であるとは一つの事であって二つの事ではない
自己と他者についてもっと意識的でありたい、と思った。
自己と他者にかくなる関係性があることにもっと価値を置いて、自己を、他者の前でもっと謙虚に歌を読み、かつ詠みたい、と思った。
式守操