
『短歌往来』2026年6月号を購読。松村正直さんの「評論月評」をおもしろく読む。
「かりん」4月号の渡邊新新月さんの評論「偏見と普通、虚構と現実―題詠新論」のご紹介。
結社誌にまで手がまわらない者に、このような“月評”は、ほんとうにありがたい。
題詠は、現代では、近代の和歌革新運動で否定されて、初心者向けであり、副次的である、と。
そして……、
題詠は過去の作品との対話であり、歴史上の他者との対話的な創作方法である。また当然、同題を詠む同時代との歌人との対話でもあるし、その題を詠む未来の歌人との対話でもありうる。
『かりん』2026年4月号
渡邊新月
「偏見と普通、虚構と現実―題詠新論」より
この論(主張)に、松村正直さんは、「題詠は時代を超えた多くの歌人が集う共通の場」と補足なさっておられる。
渡邊さんは、和歌の「題」において、「日本古代の都の貴族たちの持つ美しい幻想(イメージ)であり、偏見(ステレオタイプ)」とも。
なので(と、読解した)、
「共同体の価値観や共通認識の基盤を形作っていて、読むのも詠むのもそれに基づくことが求められている」と。
そこで(と、読解した)、
「新作によってその題自体を相対化して、同題の古歌をも新しい読みの可能性にひらく作歌ができないだろうか」
と渡邊さんのご提案は進む。。
(松村正直さんは、これを、非常に魅力的な考え方であると。)
幼稚な発言をするようで羞恥を抑えかねるが、おつむのいい人がいるものだ。
と、思った。
短歌なんてものも本気でしてみると、勉強することは、まだまだいっぱいあるようだ。
と、思った。
ついては、以下、筆者(わたくし式守)の考えたこと。
批判や反論のようなものとしてではなく、筆者のこれからの覚えとして。
あくまでたとえば、であって、かなり恣意的であるが、「花見」の題詠において。
現代人が普通に生活して「花見」を詠めば、新幹線でお花見に行くこともあろう。車内でも、降りた先でも缶ビールを飲むことがあるわけだ。
しかし、千年前の貴族も、現代のサラリーマンも、桜を見て、美しいがやがて散ることに寂しさは抱く。
生命のはかなさや人を恋ふることのつらさを重ねる。
時空を貫く強靭な糸(=人間の核)があって、相対化は自然とされていないか、と考えてしまうのは筆者だけなのか。
過去のコード(=幻想や偏見)に縛られているとはこれっぽっちも考えていなかった。
そんなこんなを踏まえてみると、渡邊氏・松村氏の“対話としての題詠”、あるいは、“過去のコードを新作で相対化する”という論は、まことにスリリングな知的体験を得られた。
されど……、
わかるようでなおわからない、となったところを打ち明けたい。
過去と未来にははさまれた現在に、詩歌が、歴史と闘争しようとの成分が見えることである。
筆者には、である。
申し訳ない。おつむが足りなくて。
歴史と闘争しなければ、時空を超えて対話=相対化(と、読解しました)は、獲得されないのか、ほんとうに?
千年前の男も、令和の筆者も、大切な人の病や己の衰えに、全く同じように胸を痛めて、月を見上げているのであるが。
それはお題がいかなるものであっても、いつの時代にも、いずれの場所にあっても不変の核があるからである、との考えを拭えない。
王朝和歌の作者がふつうに詠んだものでも、時空を超えて「お前もか」と他者と響き合えないのか、ほんとうに?
あ、いや、筆者とてわからないではない。
渡邊さんも、松村さんもそんなことは言っていないことを。
題詠というものの話、題詠の。
(念のため、念のため)
たとえばこんな歌。
雲にたゝ″今宵の月を任せてんいとふとしても晴れぬ物ゆゑ(西行)
時あたかも平家全盛の鐘が鳴る。
その前後、このように生きた人がいたこと。
どう足掻いても今のようにしか生きられない諦念。
されど、
逸脱なく心が落ち着いてこないだろうか。
一方、こんな歌もある。
さかづきに梅の花うけて思うどち飲みてののちは散らんともよし(坂上郎女)
寂美の梅を詠むも天真爛漫である。
なるほど、現代の女性の共同体に存在している歌ではないな、これは。
式守操
