
『短歌往来』2026年5.月号を購読。持田鋼一郎氏の連載・浪々残夢録を今月もおもしろく読む。
「無常における中世と現代」のタイトル。
今月の稿は、木下華子『無常の時空』の書評を担っているのであるが、筆者は、そこには踏み込まない。
著者・持田氏のご一家(ご一族)の歴史が紹介されていた。
無常があった。
持田氏としては、話の枝葉のおつもりだったのかも知れないが、次の一文が、筆者の琴線に触れた。
無常、無能、無用、無力、無駄、無念、それにおいてからは無産が付け加わったが、何といっても「無常」という言葉を一等身近に感じてきた。
持田氏は、来月八十四歳を超えるらしいが、毎月、新鮮な感度をこうも保っておいでのものを読ませてくれるのであれば、無常を軸に、自分の人生を決定しようと思えば、ここに並んだ「無」の言葉も、ネガティブな成分に意味を持たてくれそうだ。
これは何も筆者の私的解釈でも何でもなく、すべては移り変わり、固定されたものはない、それが無常なのではないか。
この稿に並んだ「無」を冠する言葉も、無常という中心軸を通すことで、ネガティブな重荷から、人生を軽やかに、かつ力強くドライブするエネルギーへ180度反転させられる。
と、思えた。
人間が苦しいのは、何者かになろう、役に立とうとするからである。
「有」に執着してしまうのである。
そうではないか。
人生が無常であるのであれば、人間の「無常、無能、無用、無力、無駄、無念』などすべて何者にも縛られてはいない自由な状態の証明ではないか。
役に立たない無駄な時間を愛して、自分の無力を認めて流れに身を委ねれば、過去の執着(無念ですね)も流せないか。
「無」の成分こそが、変化の激しい時代にあっても、自分を見失わないで、能動的に生き抜く最高の武器にもなろう。
式守操
