
『短歌往来』2026年4月号を購読。持田鋼一郎氏の連載・浪々残夢録をおもしろく読む。タイトルは、「不死鳥としての短歌」。
持田鋼一郎さんは、この稿の終盤、桑原武夫の「第二芸術論」がGHQの占領政策に合致してもてはやされたことを説いて、しかし、「前衛歌人の出現によって、再び若者たちの歌への関心を甦らせた」と。
持田鋼一郎氏は、当稿で、古代からの考察をなさっておいでであるが、ここでは終盤に触発されたことについて。
第二芸術論の前に、短歌は、戦争に利用された。国民の戦意高揚や前線の兵士を鼓舞するためだ。「第二芸術論」でのあれこれは、戦争協力の道具の痛烈な反省や戦争責任の追及が引き金となってもいようか。しかし、前衛短歌は、「短歌には盛れない」と批判した複雑な近代の内面や社会批評を短歌で表現してみせた。
GHQは何も、「忠臣蔵」のように、短歌というジャンルを一律に禁止してはいなかったが、検閲はしていた。原爆批判の歌など最も剣呑な行為だったようだ。なお、出典を失念してしまったが、マッカーサーを讃える和歌を献じる一派もあったらしく、それは許可されていたらしい。なんだか脱力する。
1980年代では、俵万智『サラダ記念日』による口語短歌ブーム。時代ごとの新しい調べを短歌は取り込んできたわけだ。短歌の世界に足を踏み入れて、最近はそれも慣れたが、年中行事のように滅亡論や形式の限界説を読まされるが、短歌界は、表現の幅を拡張してそれを乗り越えてきた克服の歴史でもあるようで……。
持田鋼一郎氏は、短歌の定型に呪力が潜んでいて、それが日本人の心を捉え続けているのであろう。
と、結んでおられて、異論はない。
が、「呪力」なる二字熟語は筆者を説得したのは確かであるが、では、その呪力とは何かについてそれをわかりやすく筆者には言語化できない。
以下、持田鋼一郎の論考とは全く無関係である。
これを呪力と言っていいかどうかはあるが、短歌の呪力(らしきもの、と言っておく)の正体に脳神経科学のアプローチから解き明かそうとする研究や解釈は存在している。
短歌による脳の動きは可視化されているようだ。
言語処理学会の「人間の脳と人工知能における短歌の鑑賞に関する神経活動の比較」(2023年3月)より
短歌と平文で感情の生じ方に違いがある
(3.2 脳神経活動データの解析)より
言語処理学会の「短歌固有の属性に対応する脳内情報表現」(2024年3月)より
文が誘発する詩的感情は,皮質全体のあらゆる領域と関係があるといえる
(5-3 考察)より
等々、短歌の呪力についてとまで言えるかどうかは保留するが、短歌への脳神経科学的アプローチとして読んでみるのも無益と言えないのではないかと。
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