海になろう/『短歌往来』2025年9月号/屋冨祖茉莉奈さん

『短歌往来』2025年9月号の今月の新人をおもしろく読む。
屋冨祖茉莉奈さんの紹介。連作「明日の朝は何食べる?」掲載。

出身:沖縄県那覇市

   連作に添えた
エッセイより

連作「明日の朝は何食べる?」より二首引く。

辛いなら「海になろう」と貴女からお酒片手に笑ってくれる(屋冨祖茉莉奈)

帰り道故郷の香り探す夏口ずさむのは月桃の歌(同)

(前略)
私は、18年間沖縄で過ごし、大学進学の為に上京しました。
(後略)



   連作に添えた
エッセイより

「貴女」は、<わたし>の友人か。詳しい属性はわからない。が、「辛い」ところを「お酒片手に笑ってくれる」ようなひとであることを詠んだのあれば、<わたし>にとってかけがえないのないひとなのであろう。このように寄り添ってくれるひとのいる人生はやはり幸運だ。
このひとは、「海になろう」と。この声を、<わたし>は、たいせつにしているごようすだ。
海に行くのではない。海に潜るのでもない。「貴女」の心は、<わたし>の内に広く眩しく投影された。
そして、それは、読者(わたくし式守)にも投影されたのである。

夏休みの帰郷らしい。
帰り道。ここは故郷。香りを探す。今ははっきりと夏。
東京に行ったはいいが、ここ故郷では、その香りを探す時点で既にのびやかになれるのである。
これだけでも好きになれる一首であるが、筆者(式守)は、<わたし>が、「帰り道」の、そのみずみずしさが「月桃の歌」を「口ずさむ」ことに、言論誌では拾うことのできない平和の尊さを覚えらえた。
屋冨祖茉莉奈さんの、この一首の作歌動機は、何も平和への祈りに占められたものではないだろうが。あ、いや、存外、そこが動機だったのかも知れないが。

沖縄の歴史、基地の問題をわがこととして理解できるとは口幅ったくてとても口にできない。筆者の親は空襲を経験している。筆者自身では、座間市と相模原市に住んでいたことがある。政府が発表する前に戦争がおっぱじまったんじゃないかと思った経験は何度もある。それでも、沖縄の人たちを思えば、わかる、などと軽々しく言えるもんじゃない。

平和を守るための議論がある。たとえば護憲や改憲もそうだ。いずれであっても、この国の平和のためのものであることでは同じだ。
でも、そも平和って何よ、ということですよ。
そういう素朴な(もはや根源的な)問いに、わたくし式守は、一つの具体的な、かつ厚みのある世界を見せてもらえたように思うのである。
この一首に。

式守操