短歌と神道/短歌往来2025年5月号/勝又浩「富士山その他」

『短歌往来』2025年5月号を購読。連載の<歌・小説・日本語>/勝又浩氏の「富士山その他」を、おもしろく読む。筆者(わたくし式守)に裨益すること多であった。

富士山はそれ自体御神体であり、信仰の対象だが、まさに神道の見本のような在り方である。

なるほど。
勝又氏は、平川祏弘『西洋人の神道観―日本人のアイデンティティーを求めて』の特色として、まず、ラフカディオ・ハーン=小泉八雲の仕事を神道という観点から見直していることを挙げている。そして、驚いておられる。

八百万の神々がいます、ということは、言い換えれば、人も自然も併せて崇めてきたということに他ならないだろう。

アニミズムは神道の基本に通じたものであることを、西洋人が指摘していたことに、勝又氏は驚いたのである。平川祏弘の著書に、というよりは、小泉八雲という西洋人がそれを為したことに。

もう一点。
フランスの駐日大使だったクローデルのエッセイもその著書『西洋人の神道観……』に引用していて、こんなことばがある、と。


〇 日本人のこころの特徴は畏敬の念

〇 清らかさを尊ぶ

このあたりが集約的に発揮されるのが天皇であり、また富士山か、と。
(また、桜もそうか、と)

ここで天皇を持ち出すことについて。
抵抗のある向きもあろうが、天皇と神道がセットになることで神道に眉を顰めるべきは、国家神道の神道であろう。あのいまいましい日本史の統帥権なんてものとも結びつこうか。

神道は本来、そんなものではあるまい。
戦後、敗戦国として占領軍から神道を取り上げられた感があるが、古神道まで滅ぼされてはいない。
憲法で、19条に「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。」と。
しかし、20条に「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。」と。
この特権と権力の行使が行き着いた先に、わが国は、灰燼に帰したのである。

余談でしかないが、護憲派と改憲派の論争で、筆者(わたくし式守)が素朴に疑問に思っていることがある。
過去の過ちは犯せない護憲派と過去の過ちは理解した上での改憲派、そのいずれにおいてもなぜ9条に19条と20条を持ち出さないのか。要らないのか。おれだけか、こんな疑問。

神道の言語化は比較的容易である。
八百万の神々、教祖も教義もない、など。わたしも神道の言語化はこの域内に収まる。
勝又氏もここで「経典もなければ、生きる規範、倫理も持たない」と。故に(と解釈してよかろうか)先の引用につながる。

読み返す。

八百万の神々がいますということは、言い換えれば、人も自然も併せて崇めてきたということに他ならないだろう。

すなわちアニミズム。

神道の言語化でわたしが最も感銘したのは、次の言葉である。

古神道というのは、真水(まみず)のようにすっきりとして平明である。
教義などはなく、ただその一角を清からかにしておけば、そこに神が在(おわ)す



司馬遼太郎『この国かたち』
「神道(三)」より

これらのキーワードを基に考察すれば、天皇は措くとして、富士山や桜が愛されること(尊ばれること)は、宗教や観念かも知れないが、それは日本人のただただ心性なのであって、アニミズムはたしかにそこに通底していよう。
と、読めた。

富士山や桜がそこにあることで、それはたしかに美しい景色であるが、日本人に、なぜこうも文学的動機になるのか。その理論的痕跡がおぼろげながら腹に入った。

たとえば目の前の桜を詠む。が、それはこの世界に桜という存在があるその「桜」も詠んでいるのではないか。目の前の桜に目を奪われることは、この世界に「桜」が存在していることに何かを認めたのだ。
そこがどこだろうと、あそこに美しい桜がある、との情報がよく流通するではないか。それはそこにある桜を知らせているのではないのだ。「桜」の存在を共有したいのだ。
晴れた日はここから富士山が見えるよ、と人に教えてあげるがごとく。

日本人の自然美への健全な希求はこうなろうか。


〇 日本人のこころの特徴は畏敬の念

〇 清らかさを尊ぶ

<歌・小説・日本語>/勝又浩氏の「富士山その他」に、筆者(わたくし式守)が、「裨益すること多であった」となったのはこのような次第である。

富士山や桜が、歌に多く詠まれてきたのは、そこに畏敬と清らかさを認めて、認めるやこれを何としても表現できないか文学的な動機が生まれる(生まれてしまう)からであろう。
それは富士山や桜に収まらないのではないか。
この心性が歌を為そうとして、抒情を生み出して、抒情を梃子に先々まで幸福へと進みますように。

式守操