
目 次
しゃがみゆく秋のビル
淡く淡く日はありながら見ていたりゆっくりしゃがみゆく秋のビル(吉野裕之)
邑書林 セレクション歌人
『吉野裕之集』
歌集「ざわめく卵」抄
(ふかく刺し交う)より
<正しくは「𠮷野裕之」です>

建っていたのは一棟だけではあるまい。が、体感したのは、いずれか一棟だったのではないか。
無数のガラスが不規則に輝いている。
しかし、ビルの中の音は、外に出ていない。
「淡く淡く」であっても、「日はあ」るのであれば、中は、まだまだこれからの人たちがいよう。
それはたとえば、まだ帰れない企業人であり、ビルメンの人たちもまた、ここにまだいる。
今から夜を迎える。
ビルはたしかに、そこで、「しゃがみゆく」ように目に見える。
吉野裕之
吉野裕之の短歌が好きである。
吉野裕之さんは、都市の計画・まちづくりの活動をなさっておられる。
そのホームページ『Made in Y』では、都市の計画・まちづくりの活動の、その方面の論文を読むことができます。
このホームページは、短詩系文学のカテゴリーも設けられていて、吉野裕之氏の歌の師であられる加藤克巳についての貴重なお話を得ることができます。また、加藤克巳以外の歌人についても、多くの論考を読めます。
文化論的な視点から都市の計画・まちづくりのあり方を模索する
『Made in Y』|吉野裕之のウェブサイト
profile
(Made in Y-短歌/俳句/都市=まちづくり/NPO=市民活動)
この『Made in Y』を読んでいたからがあったのかも知れないが、このビルの一首は、吉野裕之の短歌の中でも強く印象に残った。
読み返す。
淡く淡く日はありながら見ていたりゆっくりしゃがみゆく秋のビル(吉野裕之)
わたくし式守が、短歌の都市詠の中で、ことに愛している一首でもある。
わたしは、この一首に、来し方が癒された。
わたしは四半世紀を、オフィスビルの中で会計・税務の職に就いていた。現在は、もう10年を超えてビル清掃に従事している。
このような中を、わたしは、生きてきたわけだ。
わるいところでもなかったのだ。
「まち」は、その全体で、「癒し」になることがあったのである
吉野裕之のゲーム
“ゲーム”とはまた唐突であるが、それは、こういうことなのである。
ときどきこんなゲームをしかける。「まちにあるものを5つ挙げてください。持ち時間は1分です」。できれば筆記具を持って、手近な紙に書いてもらう。
(中略)
挙げられるものの多くは、たとえばつぎのようなものである。家、ビル、学校、病院、駅、公園、道路などなど。すこし小さなものだと、マンホール、消火栓などを挙げる人もいる。また、街路樹や噴水、ベンチなど。ときに町内会というのもある。この辺になってくると面白くなってくる。しかし、空や太陽、あるいは夢や希望といったものを挙げる人はいない。
『Made in Y』|吉野裕之のウェブサイト
[まちづくりNPOの可能性と課題]
まちをより豊かに実感していくこと
-立ち返る原点として-
(まちにあるもの)
「夢や希望」なんてものを「まちにあるもの」に求め得る発想がなかった
吉野裕之氏の仕事に大きな価値を見出せた。
この今さらは、吉野裕之氏に、かえって無礼になりかねないが。
吉野裕之の短歌で、わたくし式守は、この「まちにあるもの」を教わる
建築後/解体後:桜はやがて満開に
クレーンに吊り下げられているものをしばし見ている 桜膨らむ(吉野裕之)
邑書林 セレクション歌人
『吉野裕之集』
歌集「ざわめく卵」抄
(ふかく刺し交う)より

「クレーンで吊り下げられて」があれば、建築中の光景か。「まち」はいま、さらなる高みを目指している。
が、高層階のビルであれば、解体でも、クレーンの手は要る。
いずれであっても、赤錆びた鉄骨が街の空を舞っている。
「まち」はいま、新たなる景色に生まれ変わろうとしている。
そして
「クレーン」が、竣工であっても、解体であっても、桜は、やがて満開になる、というわけだ。
生まれ変わった「まち」に「夢や希望」を認めることはできるだろうか
花の力:孤独や闇に負けない
「まちにあるもの」に花はやはり欠かせないようだ、
との生な歌を吉野裕之は詠んではいないが
たとえば次の一首。
この一首は、わたしの不意を打った。
風景の片隅にある向日葵の枯れゆくときの力を思う(吉野裕之)
邑書林 セレクション歌人
『吉野裕之集』歌集
「ざわめく卵」抄
(夏の樹/冬の疲労)より

<わたし>は、まず、
「風景の片隅にある向日葵の枯れゆくとき」を目にとめて、
その「力を思う」のである。
力?
枯れゆくときの?
枯れゆく前にしてなお力がある、と
ヘリコプター
棕櫚、初夏の空き家の裏に立ちいたり ヘリコプターの音は近づく(吉野裕之)
邑書林 セレクション歌人
『吉野裕之集』
歌集「空間和音」抄
(Ⅷ)より
ヘリコプターの音が近づこうが、棕櫚は、立っている。
それも空き家の裏に。
たしかに力がある。
花の力が
轟音
轟音の去りたる闇に育ちつつ揺れつついたり朝顔の蔓(吉野裕之)
同
『吉野裕之集』
歌集「ざわめく卵」抄
(春が近づく)より
ヘリコプターの音と同様の、ここにもまた、轟音があった。それでも、朝顔の蔓は、ただ揺れているのである。
それも闇の中である。
たしかに力がある。
花の力が
「まち」は、孤独や闇に負けない力も、探せばそこに見つかるのである
電車に乗って/うるおい
四ツ谷から東京までを眠りたり花咲く窓を後ろに置いて(吉野裕之)
邑書林 セレクション歌人
『吉野裕之集』
歌集「ざわめく卵」抄
(雨のようなる)より

<わたし>は、JRの中央線にご乗車か。
今は、どのあたりを走っておいでだろう。
中央線は、窓に、たしかに風光明媚をのぞめることがある。
車窓が「花咲く窓」になる「まち」が悪かろう筈がない。
「まち」は彩られた。
それはうるおいと言ってもいいものではないか。
次の一首も、<わたし>が電車に乗っているが、これを「うるおす」と表現する吉野裕之を、わたくし式守は、膝を屈して敬う者である。
椿いろの電車に乗って渡るかな首都をうるおす川渡るかな(吉野裕之)
同
『吉野裕之集』
「胡桃のことⅡ」
(1)より
腰の句と結句に「かな」が連続することで、読者も、「椿いろの電車に乗って」進んでいる体感を持てる。
<わたし>は、川を渡っておいでであるが、その川は、首都をうるおしてもいるそうな。
わたしも歌作をする者である。できれば歌の上手になりたいものだ、との思いは弱くない。
が、歌の上手から遠くを生きていることを、この一首で、痛感することになった。
わたしは、川に、まず灌漑治水を思ってみるのである。行政の適否について判断する。
まあそれも必要な視線ではある。灌漑次第で豊天の地となるもならないもあるのである。されど、うるおしている、との表現にはついに至らない。それも首都を、とまでの。
さて
わたくし式守がビルの中にいるように、今、<わたし>は、電車の中にいる。
電車も「まち」の一部。<わたし>もまた「まち」である。
「まちにあるもの」に「うるおい」は不可欠である
天と地と:生命の訴える声

まっ青な空がぼくらの上にあってこの年も会う馬鈴薯の花(吉野裕之)
邑書林 セレクション歌人
『吉野裕之集』
「胡桃のことⅡ」
(1)より
馬鈴薯の花
まっ青な空があってこの年も会える、と。
なるほど。
この一首に、わたくし式守は、自然のうちに存在している生命の訴えが聞こえる。
「まち」は、それがたとえ地下であっても、空の下にあることを改めて思う。
都市開発もいいが、自然破壊をしてどうする、なんて初めから答えのわかっている問題を聞かされることがある。
自然は保護して都市の開発もすればいいではないか、と言えば、話はそれで済むのであるが、それで済めば誰も苦労しない。大人の事情がそれを困難にする。
が、<わたし>だけではない。
人間は、毎年、この一首で言えば、馬鈴薯の花というものに会わなければならないのである。
されど、大人の事情などに縛られたままでは、花に会うことは困難になる。
「まち」は人間を超えた自然のうちにある生命の声があった
ひなげし
あの頃の空の深さがここにあって君が指差す これはひなげし(吉野裕之)
同
『同』
「同」
(2)より
空には浅さ深さがあるらしい。
高いや低いではないのである。
知らなかったなあ
では空の底が地か
そうなろうか
この一首は、地に、ひなげしがある。
「あの頃の空の深さ」がまだあって、「これはひなげし」と「君が指差」した。
人間の営みが、ここに、写されている。
<わたし>と「君」と「ひなげし」が、人間の営みという、かけがえのない時の経過の価値を教える。
人間は、「まち」の中にあって、人間でない生命の訴えを、それはほとんど無自覚であるが感知して、誰かを愛しては、空の下を、地の上をともに生きていたのである。
それは、かけがえのない清澄な「まちにあるもの」である。
歌人・吉野裕之に、そのような歌作動機があってかどうかは知らないが、「まちにあるもの」には、それがいささか観念的ではあっても、そこに生きる人間たちの「夢や希望」が必要であることを説く。
「まち」に人間の愛が欠かせないことを、吉野裕之は、その清澄なお心で説く。