
目 次
なるほどこれが歌人か
とほく眠るからだをおもふかすかなるなゐの過ぎたる薄明のなか(横山未来子)
KADOKAWA
『現代短歌アンソロジー』
平成二十七年下巻(春)より
地震があるぞ、となると、目が覚めることがある。
あ、揺れた、となって、すぐおさまるとまた眠りに就く。
この一首は、ここで、「とほく眠るからだをおもふ」のであるが、「おも」っているのは<わたし>である。
「とほく眠るからだをおもふ」ことは、誰にでもある。
が、その「おもふ」を、このように描ける人はそういまい。
おお
なるほど
これが歌人か
大人の女性だとわかること

わたくし式守は、この一首は、作者の横山未来子の名を伏せていても、<わたし>が大人の女性だとわかる一首だと考える者であるが、どうだろう。
いや、思春期の男の子が、果たせないおもいに悶々としている女の子の「 とほく眠るからだをおもふ」場面なのかも知れないが。
が、「とほく眠るからだをおもふ」に詩を覚えられたのは、主格たる<わたし>に、女の人の単体がまず目に浮かんだからである。
詩的イメージとして、すっ、と。
なぜ?
たとえば、あくまでたとえば、主格たる<わたし>が、「クリティオスの少年」であっても、この一首に収まることはない。
唐突にクリティオスの少年

製作・紀元前490年から480年頃
所蔵・アクロポリス美術館
芸術としていかにすばらしいものであっても、この一首の<わたし>に、 クリティオスの少年は起用できない。
美少年はとかくドラマになりやすい。
たとえば、美少年の、貞淑な人妻への慕情とか。そういうやつ。
読んだんだよなあ、そういうの。おおむかし。
でも、詩じゃないな、あれ。
では、この一首に、たとえば中原中也の詩のようなイメージだったとしたら……?
盲目の秋
それはしづかで、きらびやかで、なみなみと湛〈たた〉へ、
去りゆく女が最後にくれる笑〈ゑま〉ひのやうに、厳〈おごそ〉かで、ゆたかで、それでゐて佗〈わび〉しく
異様で、温かで、きらめいて胸に残る……あゝ、胸に残る……
中原中也『盲目の秋』より
わたくし式守は、女性の単体こそがここではまこと美しくなる、そのような場面があるようだ、と言いたいのである。
たとえば、「とほく眠るからだ」と「とほく眠るからだをおもふ」<わたし>の関係において。
そうとしかならないように詠まれている手腕に驚嘆を覚える
そして、これは、むろん官能の話ではなく……。
女の人の朝の美しさだったら
原色の植物がある。
その蠱惑な妖しさもまた詩的イメージとして鑑賞に堪える。
しかし、 原色の植物では、官能の世界ではないか。
それが 、たとえば美少年の貞淑な人妻への慕情であっても、官能の世界の薄明は、人に、淫逸の境をさまよわせてしまう。

とほく眠るからだをおもふかすかなるなゐの過ぎたる薄明のなか(横山未来子)
触れ難いおもい
いい歌だなあ
静かな存在が、薄明に、うすくあけた目に沈む。
作者の指紋ものこさないふくよかな作風に、この天地は、やがて呼応することを保証している。
「とほく眠るからだをおもふ」 静謐な世界に、官能の世界の物憂さなどない。
かくして美しく典雅な薄明が、この世界に、すっと出現した。
自然も人も休止なく回遊する薄明を、「とほく眠るからだをおもふ」薄明の女性の姿を、わたくし式守が、確かに体感した瞬間。
ビバ
横山未来子