横田専一「そのままの木」「親子鹿」短歌に童話と童謡を積む

短歌と童話

童話のなか木はこんもりと茂りおりそのままの木が目の前にあり(横田専一)

短歌新聞社
『風土』横田専一歌集
「めたぼりずむ」抄より

横田専一「そのままの木」「親子鹿」短歌に童話と童謡を積む

「ああ、ぼくも、ほかの木とおんなじように、大きかったらなあ!」と、小さなモミの木はため息をつきました。

アンデルセン
『モミの木』
(矢崎源九郎訳)

なんと童話は、モミの木が、言葉を話してしまうのである。

そんなことあるか、などと言う人はいない。

子どもだった時に、

いまいきているところとおはなしのなか

はちがう、
ということを学習したからである。

この一首が、わたしに魅力的なのは、

いまいきているところとおはなしのなか

が同じになったことである。

そうだった
そうだった
おはなしは
別世界じゃなかった

「そのまま」と「目の前に」が、わたくし式守に、たまらなく魅力的だ。

この短歌で、残りの人生に、木はこれまでの木じゃない

短歌と童謡

親子鹿遠ざかりゆく傷つきし脚もつ母に仔はしたがひて(横田専一)


「めたぼりずむ」以後より

横田専一「そのままの木」「親子鹿」短歌に童話と童謡を積む

子鹿のバンビはかわいいな
お花のにおう 春の朝
森のこやぶで うまれたと
みみずくおじさん いってたよ

「子鹿のバンビ」
作詞・阪口淳

なんと童謡は、みみずくが、言葉を話してしまうのである。

そんなことあるか、などと言う人はいない。

子どもだった時に、

いまいきているところとおうたのなか

はちがう、
ということを学習したからである。

この一首が、わたしに魅力的なのは、

いまいきているところとおうたのなか

が同じになったことである。

そうだった
そうだった
おうたは
別世界じゃなかった

「仔」が「母」に、どれだけの感情量があるか、それがどれだけ哀切であるか。
「したがひて」ただ一語で。

この短歌で、残りの人生に、鹿はこれまでの鹿じゃない

童話も童謡もない短歌

横田専一「そのままの木」「親子鹿」短歌に童話と童謡を積む

童児の日は挫折をおもうことなかりき目に日かげなる田のうす氷(横田専一)


「めたぼりずむ」抄より

美しい歌だ。
美しいゆえに胸が痛む。

無聊の時間などない時代がここにある。
「挫折をおもうことな」い時代に「日かげなる田のうす氷」の取り合わせは、若くない者に、残酷ですらある。

これが残酷だからこそ、横田専一は、これを歌にしたんじゃないのか。

人語を解する木と人語を解する鳥を、今いる世界の地平に、童児は、まだ置ける時代なのである。

それが、いつしか、こんな情報をありがたがる時代を迎えてしまうのである。

わかめ売る浜の女は目のあえば「精がつくよ」といいて笑いぬ(横田専一)


「めたぼりずむ」以後より

おもしろい。

でも……、

せつないなあ

そりゃいつしかモミの木とみみずくの声はきこえなくもなるわな

横田専一「そのままの木」「親子鹿」短歌に童話と童謡を積む

リンク

短歌新聞社は解散しました。(「短歌新聞」2011年10月号より)

Amazonに横田専一『風土』の在庫はないようです(23.01.26現在)

参考リンク