
ぎんの花のブローチ
ちちははの亡き世の匂ひひんやりとしてゐるぎんの花のブローチ(山本枝里子)
ながらみ書房『短歌往来』
2026年2月号
「ガラス越し」より
ブローチなら母とのことかと思えば、あくまで両親とのこと。
「ひんやりと」で、既にお亡くなりであることに、いっそう感慨深くなる。
亡くなった人の思い出の品でその人を思い出しても、亡くなった人はやはり亡くなった人に過ぎないことがある。
が、この歌はどうか。
亡くなった人と交信可能な「ブローチ」にも見えてくる。
そのあたりについて以下
「ぎん」であること
「銀」では、いかにも硬く冷たく、あくまで鉱物の印象を拭えない。
「ぎん」にしたことで、この歌は、幼い頃の記憶のような優しい輪郭が際立った。
金属としての銀ではない。「ぎん」としたことで、「銀世界」のような静寂、「銀の裏葉」のような自然界の儚さも歌に帯びている。
ひらがなは、漢字の持つ意味の主張を和らげるが、この一首の「ぎん」は、漢字を起こさない好例ではないだろうか。
「ちちはは」であること
「父と母」ではないのである。「ちちはは」でひとくくり。
<わたし>に、父と母は切り離せない「両親」という一つの存在なのであろう。
それは、遠い記憶の象徴かも知れない。
幼子がまだ低い場所から両親を見上げているような無垢な響きが聴こえるようである。
残された者の孤独感が際立つ。

「匂ひ」と「ひんやり」の感覚の衝突
読み返す。
ちちははの亡き世の匂ひひんやりとしてゐるぎんの花のブローチ
「匂ひ」でいったん切られていないのではないか。すなわち「ひんやりと」にかかっている。
通常、匂いと言えば、雨が上がったアスファルトのにおい、あるいは、コーヒーやアロマの香り、そんなこんな。それを、「ひんやりと」と表現したのではないか。
すると、この「ブローチ」は、ただの思い出話でなくなる。
目の前にあるブローチから聖なる空気が立ち上がっている臨場感を覚えられる。
思い出は、時間が経つほどに薄れるものだ。あやふやになってしまう。
その切なさの中で、この歌の「ひんやりと」は、驚くほど生々しい。
外から内へズームイン
「ぎんの花のブローチ」はどこにあるのか。
手のひらの上?
食卓の上?
いずれにしても小さな一点だ。
が、無限に広い「亡き世」は、最終的に、この小さなブローチへと意識が収束する。
ついては、筆者はそうだったのであるが、このブローチを凝視せざるを得なくなった。
ここまで意識を収束させ得るエネルギーが、この一首に、山本枝里子さんの手によって包蔵されたのである。
と、読めた。
死によって完全に分断された筈の両親(ちちはは)の世界に、ブローチという小さな窓が開いた。
花のブローチではあるが
「花のブローチ」では永続性が担保されない。
が、この歌の花は「ぎん」で作られている。決して枯れない金属の花なのである。
肉体は滅びても思い出や関係性は永遠に凍結されている安心感を持てる。
読み返す。これで最後だ。
ちちははの亡き世の匂ひひんやりとしてゐるぎんの花のブローチ
作者の山本枝里子さんと「ちちはは」は、交信可能だと思えてこないか。
亡くなった人は亡くなった人に過ぎないアンビバレントな感情はあるが、「亡き世」が作者の山本枝里子さんと地続きにある充足もないか。
「亡き世」とは本来、まだ生きている者には手の届かない場所であるが、この歌では、ブローチを通じて、「亡き世の匂ひ」がこちらの世界へはみ出したのである。



