山田吉郎「人生は短くもあらずして」時間は寸法で測れないが

人生は短くもあらずして

一概に人生は短くもあらずしてドン・キホーテの五冊目を読む(山田吉郎)

本阿弥書店『歌壇』
2017・4月号
「花絶えず」より

ドン・キホーテは風車に追撃するんだそうな。
そこからドン・キホーテ型なんて人間の分類も生まれた。

文学にはこんな力がある。

が、筆者(わたくし式守)は、ドン・キホーテを、これまで手に取ったことがない。

ドン・キホーテは五冊で終わりではない。まだある。大長編なのである。
それを、<わたし>は、読んでいる、と。
たしかに「人生は短くもあらず」らしい。
大長編をまだ読めるほどに。今からだって、それもその最後まで読めるほどに。

時間の速さに抜かれていない

時間は寸法で測れない

十代の野原の風が

山田吉郎「人生は短くもあらずして」時間は寸法で測れないが

十代の野原の風が身の内のどこかに今も吹き迷ひをり(山田吉郎)

「同」より

わかる。よくわかる。

この一首に詠まれていることに想像が届く、と言っているのではない。
それ以上。筆者(わたくし式守)にも「十代の野原の風が身の内のどこかに今も吹」いているのである。そして、「今も迷ひ」ているのである。

ところで

人生という時間はかくも速い、との歌意だろうか、これは。
そうではない。
そうではない、と思えるのである。

この人生は短くない時間を持たされて、「十代の野原の風」はまだ(まだ、である)「身の内のどこかに今も吹」いている、そのように読めたであるが、どうだろう。
「今も」の措辞は、そのような働きがある、と読んでみたのであるが、どうだろう。

だから、ほれ、

ほれ?

一概に人生は短くもあらずしてドン・キホーテの五冊目を読む(山田吉郎)

ドン・キホーテだって読める

葛葉の里に

山田吉郎「人生は短くもあらずして」時間は寸法で測れないが

世を拗ねて葛葉の里にこもりしか風花はつか旧友(とも)の訃を聞く(山田吉郎)

「同」より

旧友(とも)の訃に接して、山田吉郎さんは、「世を拗ねて葛葉の里にこもりしか」と。
なんて哀切なおもいだろう。
友の死とはほんとうにこたえるものだ。

葛葉の里は、桜が咲き乱れている。

亡き友の葛葉の里は、山田吉郎さんに、またこの式守にも、どれだけ隔たったところにあるのか。
「風花はつか」のみが友と交感するを易くする。

自分が葛葉の里に足を踏み入れるのはいつの話なのか。
命の春はいつかは暮れる。
その時間は誰も知らない。

リンク