
目 次
喉元のここちよさ
チュンチュンとすずめの鳴ける喉元のここちのよさと桜の開花(渡辺松男)
KADOKAWA『短歌』
2024.6月号
「雀の時間」より
すずめがチュンの時の、その「喉元のここちよさ」を、<わたし>もまた、ご自分の喉元に感じたのだろうか。
そう読めたが。
「桜の開花」は、すずめがチュンの時の、その背景か。
背景なだけではない。桜が開花する瞬間というものを、<わたし>は、感じていて、そして、そこにも、「ここちよさ」があった。
そう読めた。
わたしはビールが大好きで、ビールを飲む時の「喉元のここちよさ」は、よく知っている。
しかし、すずめがチュンの喉元のここちよさは知らなかった。と言うか、チュンの喉元に、ここちよさがあるなどと思ってみたことがない。
桜の開花の瞬間に快感があることもまた、
すずめにとって<わたし>とは?
<わたし>にとってすずめとは?
すずめとわれと
すずめのこゑ意識するとき雀あり同時にわれもありぬ朝から(渡辺松男)
『同』
「同」より
いかにもつまらない理屈をこねるようで気がさすが、すずめが先にあるのか。あるいは、われか。
すずめがチュン、
となれば、
あ、すずめだ、
と、わたしだって思う。
が、こんな幽玄な哲学は、これまで持ったことがない。
すずめがチュンに。
どっちが先なんてどうでもよい
すずめに乗る
夕刻のすずめのこゑとともにあるわがこころかなすずめに乗りて(渡辺松男)
『同』
「同」より
最近は読まなくなったが、わたしは、児童文学が好きである。
児童文学を持ち出さないでもいいか。ファンタジーなんてジャンルでもいい。
しかし、
すずめがチュン、
によって、すずめに乗っているとの場面は、これまで読んだことがない。
この一首はもとより短歌であって、児童文学でもファンタジー小説でもない。
そもそもそんな方向性の歌ではあるまい。
ただただ短歌。
ただ短歌。
されば、「すずめに乗りて」は、<わたし>の心象風景か。
ありていに言えばまあそういうことになろうか。
でも、それがたとえ心象風景でも、<わたし>は、すずめに、ほんとうに乗っている体感があったんじゃないか。
それも乗っている程度ではないようなのだ
あのチュンにある
すずめのチュンわたくしの全存在があのチュンにあるごときいつしゆん(渡辺松男)
『同』
「同」より
「ごとき」との措辞がある。
すずめとわたくしは一体化している、と断言してはいない。
いないが、でも、そのような体感はあった。
すずめのチュンで。
どれだけ好きなんだ。
すずめのチュンが。
どんな力が秘められている。
すずめのチュンに。
どんな力。
どんな?
風鈴のリン
風鈴のリンというおとすずめごのチュッといふこゑ亡きひととゐて(渡辺松男)
『同』
「同」より
こんどは風鈴です。リンです。
結句に「亡きひととゐて」と。
風鈴のリンも力があったのか。
すずめのチュンに負けていない不思議な力がある。
不思議な。
それは超自然な力。
そして、その力は、悲しくも、しかしこうも美しい。
されば
こんなことを思えてならないのである。
亡きひとが、その力を、<わたし>に生み出してくれている。