
目 次
ここにもゐない実感
ここにゐてここにもゐない実感にたつたひとつの雲浮きてをり(渡辺松男)
本阿弥書店『歌壇』
2017.9月号
「赤鴉」より
初読で、まず、「ここにゐてここにもゐない」という実感があることに、あれっ、となった。
自分にもたまにある。
それはもちろん、解離とか離人の症状を詠んだものではない。
誰にでも、つまり歌人なんて手合いでない者にも、珍しくはない。
ゐないという実感
読み返す。
ここにゐてここにもゐない実感にたつたひとつの雲浮きてをり(渡辺松男)
読めば読むほど
読み捨てられない
これがまた、「(そこにいないのに)そこにいるような感じ」であれば、やはりよく聞く「感じ」である。
自分にもたまにある。
それはもちろん、妄想の症状を詠んだものではない。
誰にでも、つまり歌人なんて手合いでない者にも、珍しくはない。
ここにもそこにもいないのだ

<わたし>は、ここにもそこにもいないのだ。
存在していることは確かか。だから「実感」とういうものはある。
ではどこにいるのか。
どこに?
<わたし>を、わたしは、探してみたい
さしあたり雲を見ている
読み返す。
これで最後だ。
ここにゐてここにもゐない実感にたつたひとつの雲浮きてをり(渡辺松男)
<わたし>は、雲を見ている。
空なんてものは、あまりに広大で、天候が何であろうと、自分が実は空の下に生きていることをそう意識していないものだ。
歌人なんて手合いは、空を、それはもうよく見ておいでであるが。
が、おおかたは、雨が降りそうな時に、遠くの離れた職場を、それもいまいましいだけの職場を、休みの日に意識している程度にしか空を見上げはしないのである。
雲はそうでもない。
雲がたまたま目に留まることがある。人はそこで、ああ、いま空は、となる。
<わたし>に、それはたった一つだったが、この世界に生きていることを実感するには十分の雲が、空にあった。
「浮きてをり」と。
でもどんな雲だった。
うらうらと浮く綿のような?
白く日に輝いている大きな?
どんな雲?
<わたし>は空にあり
<わたし>はどこにおられるのか、そんなことはわからない。
ご本人にして、そこにたしかにいる実感がないではないか。
たしかな実感はむしろ、<わたし>が、そこにいないこと。
どこにいるのか実感できないところで、<わたし>は、そこにいない、という実感を持つに至った。
ああ、<わたし>は、きっと、それはきっとであるが、空にいるんだ。
そうと実感はできないが。
あ、いや、いるんだ、じゃないな。なった、なのではないか。
なったのだ、雲に、である。たった一つ浮いている雲に。
見上げれば空がある。雲が浮いている。
そこがどこかわからないまま雲にとなってしまう。
それはかなしいファンタジー

雲に?
雲に。
が、この一首は、単純なメルヘンではないのである。
ご自分の身一つを抱きしめるしかできない世界を生きておいでなのではないか。
いや、ご自分の身一つを抱きしめることにも、大儀なのではないか。
「たつたひとつの雲」とはそのような姿だとわたしには読めたのであるが。
事実、渡辺松男氏は、夫人を亡くされて、ご自分も難病に冒されている。
が、人間は、孤独が本然の生命ではない筈なのである。
だから、それがどんな雲かは知らないが、その人の雲を、たとえば愛する人の雲を、自分にやさしくしてくれる人の雲を慈しむ。
わたしの好きな八木重吉の詩にこんな雲がある。
(前略)
八木重吉
なにを かたつてゐるのか
それはわからないが、
りんりんと かなしい しづかな雲だ
「白い 雲」より
この連作「赤鴉」の最後は、こんな一首で閉じられた。
冷蔵庫にしまひておける白肌の卵のことは頭に浮かぶ(渡辺松男)