
目 次
この短歌がおもしろい理由を知りたかった
ヘラクレスオホカブト欲しきといふ少女脱毛をした腕の照りつつ(梅内美華子)
KADOKAWA『短歌』
2015.9月号
「船形石」より
短歌を読むようになって、
でも、
ぼくも歌をつくる、
とはまだなっていない時に読んだ。
一言、おもしろかった。
ただ、
これがなぜわたくし式守に、こんなにおもしろいな性が高くなるのか、それはまだわからなかった。
短歌をもっと読むようになって、自分でもつくってみるようになって、最近、それはやっとであるが、この一首が、ものを言ってくれるようになった。
それはどうしてだったのか。

短歌とはその結構が単純だった
つくる、
においては、ここでどうしたらいいかわからないことがまだまだあるが、
読む、
においては、わかってきたことがある。
たとえばこの一首は、
要は、
昆虫をほしがっている少女がいる
ただそれだけの話なのである。
「少女」とはどのような少女か、
一首全体が、その「少女」の表現だった。
短歌は単純だが技は要る
どんな少女? → 腕が照っている
その腕って? → 脱毛をしている
ヘラクレスオオカブトがほしい
味も素っ気もないが短歌になるとおもしろくなる
だが、実際に短歌をつくるとなると
だから、たとえば、あくまでたとえば、であるが、
サラリーマンの手にスマホ

こんなことだっておもしろくしようと思えばいくらだっておもしろくできるわけだ。
だが、実際に短歌をつくるとなると、これが、おもしろくなどとてもできないことを知る。
で、たとえば、今回のこの記事の一首、
ヘラクレスオホカブト欲しきといふ少女脱毛をした腕の照りつつ (梅内美華子)
・ここで少女の腕を見せられるか?
・その腕は脱毛をしていました、まで見せられるか?
これらをクリアしたところで、少女が欲しがったのはスマホ、だったとしたらどうよ。
短歌として何の魅力もない。
クワガタだったらどうだろう

では、姉妹昆虫のクワガタを「欲しき」だったらどうだろう。
ミヤマクワガタとか、
これもまた、「欲しき」に、迫力は持たせられないかと。
梅内美華子も「(ミヤマクワガタを)欲しき少女」だったら、「少女」を、「脱毛をした腕の照りつつ」と表現しただろうか。
そも「少女」に何かを見つけられただろうか。
ひいては短歌は生まれなかったのではないか。
少年だったらどうだろう

これは論外。
たとえば、
甲子園大会で敗れた球児が甲子園の砂を袋に詰める、
という場面。
おもしろいか、あれ。
いや、伝統としては価値がある。
これが短歌だったとしたらあれはどうよ。
球児に、腕、それプラス脱毛に相当するものを要する。
おもしろくしたいのであれば。
短歌研究室
ところで、このサイトは、「短歌研究室」である。
このサイトの「研究」とは、この程度の研究なの、と?
恥じ入ります。
頭も尻尾もない。
とんだひょうろくだまだし。
でも、
ここでこうレポートしたことの、すうっと頭にしまわれた時に、どれだけ歓喜があったことか。
なんだ、そうか、こうだったか、と。
短歌とは、なるほど、ほ~、と。
そして、その歌人に畏怖を覚える。
梅内美華子への畏怖
こんなことをバカ正直に言っては、50代中盤男性として社会性を疑われかねないが、これも短歌の現実の一つとして……、
式守は、短歌を精力的に読むようになっても、梅内美華子の名をまだ知らなかった。
短歌とは、これを読むと、時に、その作者の実体がありありと覚えられることがある。
名はそこに付く。
昆虫と脱毛の腕は、現代社会の無数の構成比の中で、どうにも乖離することはなく、ばかりか、効果的な調和を見せた。
昆虫と脱毛の腕が交響する億分の一の、これは、奇跡だった。
昆虫と脱毛の腕が同一時空にあることを感受するなど、億分の一の確率になってしまう、そういう社会機構の中を、現代人は、生きているのである。
それを、梅内美華子なる女性は、短歌に、詩画交響として結実させた。
梅内美華子の実体に忘れることの絶対にない名が付いた。
すなわ畏怖が生まれた。
すると、あふれ出てくるものが……。
あふれ出てくるもの
読み返す。
ヘラクレスオホカブト欲しきといふ少女脱毛をした腕の照りつつ(梅内美華子)
ますますいい歌だ。
文字を与えられていないものがあふれ出てきた。
「少女」は、美容に、手間を惜しんでいない。
女性美は、「脱毛」ひとつとっても、これでどうして高度に発達した産業である。
この同一時空に「ヘラクレスオホカブト」は存在していた。
展示されて、かつ販売されてもいたであろう「ヘラクレスオホカブト」は、女性美と共鳴して、この世界はいかに壮大か、音楽が鳴りだしたではないか。
社会機構の一断面に過ぎない話なのに。
かくして世界にひしめきあるを知る

一女性がより若い女性と見合わせて刃交ぜの斬りむすび、
なんて方向性で読んではいません。
念のため。
されど、
女性は、こんな億分の一の時空にもはつか火花を散らすものなのか、
とは思わないでもありませんでした。
作中の<わたし>に、「ヘラクレスオホカブト」への心情より「腕の照り」への心情が、サイズは大きかろうことで、美容を扱って、しかし、人間の世界にひしめきがあったことに、短歌のひょうろくだまは、一驚してしまった、どうもそういうことだったようだ。
美容も昆虫も同等同質の産業で、産業だよ、産業、そんなものに光沢が帯びた。
産業なんてものが詩に収まった瞬間だった。
おお
歌人とは
すごいじゃないか