
目 次
短歌にくるまれた素顔の偉大さ
すさまじく生き凌ぎける四十年きみの素顔に涙したたる(坪野哲久)
不識書院『胡蝶夢』
(白うつぎ)より
「すさまじく」の初句が、正に「すさまじ」い。
坪野哲久は、明治のお生まれである。
死体をまたいで歩いた時代もあったであろう。
氏の、その思想に、行動家たらんと生きたがための受難も、少なくなかったと思われる。
されどこの「すさまじく」には普遍性が
坪野哲久だけの話かなあ
坪野哲久が生きた時代相が背景にあるから「すさまじく」ではないだろう。
坪野哲久の個としての闘争ありきで「すさまじく」ではないだろう。
それは「四十年」である
「四十年」を「生き凌」いだのである
「生き凌」いだのは「きみ」とである
作者名を伏せても、この一首は、「すさまじく」読むことができるのではないか。
「素顔」の美しさ

「四十年」が、一首において、「素顔」と円滑に呼応している。
ともに生きた「四十年」は、たまたま「きみ」の「素顔」に視覚化されたものなのかも知れない。
が、それは、これまでの身と心が、妻の「素顔」にくるまれているからである。
人生の残りを数えざるを得ない地も、この世を生きるに、なお濁流はあるが、そこに、眩しい波紋もあることを、坪野哲久は、この一首に収めた。
どの時代の誰にでも獲得できる

読み返す。
すさまじく生き凌ぎける四十年きみの素顔に涙したたる(坪野哲久)
現代の人々とすでに歴史になった人々とを肌で比較することなどできない。
されど、人生の残りを数えるほどになってはいないが、多少は枯淡の境地も知る年代になって、この一首を、過去の一人生程度に読むことはできない。
どうしてもできない。
いつの時代でも、それが誰であっても、人生に不可避の危難や艱苦に、人は、この一首の「素顔」を誰かと獲得する人生を、送ろうと思えば送れないことはないのである。
短歌は、人間のおもしろさが、そこに津々とつつまれることを、この一首で、改めて知る。
涙したたる

“お涙ちょうだい”と言えば、おおかたは、それを揶揄してのものであるが、この一首に、その“お涙ちょうだい”性など微塵もない。
生きたのだ
一言、美しい。
坪野哲久は、短歌の天質に美を加味して、これを、読者に訴える。
涙も韻律だ。
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