
目 次
はだのしめりか

春近きはだのしめりかゆるやかに雨滴ひびけり夜のふけゆくに(坪野哲久)
タイガー・プロ『碧巖』
(朱)より
何かやわらかい絹につつまれて「ひび」いているような印象を持つ。
春近き=はだのしめり
夜のふけゆく=春近き
雪原に一輪の花の如き気品がある。
花が揺れて、葉が奏でる季節が、すぐそこにある。
一読してすげえやと思わせるような短歌を作りたい、との邪心がかすめると、わたくし式守は、坪野哲久を読むことがある。
すぐにあきらめがつく。
一読してすげえやと思わせるような短歌は、この式守に無理、と悟って、また新たに出発するのである。
撫でつつ悦(たの)し

ここに次の一首も引く。
祝婚のこけしの彩(いろ)のあたたかく形あるものは撫でつつ悦(たの)し(坪野哲久)
同(彩)より
「あたたかく」とあるが、「こけしの彩(いろ)」によって、「あたたか」いのか。
「あたたかく」とも感じよう「祝婚」だったのか。
「撫でつつ悦(たの)し」に、この「こけし」の、その光沢まで目に見えるようである。
「悦(たの)し」一つに、この世界への慈しみがこもっておられる。
自然の循環
自然の循環は、生命に利するばかりではない。

生命には宿命がある
命終をかねて知るゆえいさぎよくかくろいはてき森のけだもの(坪野哲久)
同(わが黒き森)より
たけたかく生きし一人と懐うにもなおいたましくたましいの痣(同)
同(天の露霜)より
人間苦の、苦ゆえの反作用が、体内に、同時にあることに驚嘆する。
宿命はこれを煩いとせず

人間苦の反作用として
春近きはだのしめりかゆるやかに雨滴ひびけり夜のふけゆくに(坪野哲久)
祝婚のこけしの彩(いろ)のあたたかく形あるものは撫でつつ悦(たの)し(同)
髣髴として
人々の苦憂を掃う
一居士の姿が
目に見えるようだ
はだのしめりか?
撫でつつ悦し?
駘蕩として神さびた心情が、「ひび」きと円滑に呼応して、人一人の生命をそよがせる。
また、「こけしの彩のあたたか」さは、人が人を慈しむすべてにわたる温度ではないか。
毒を毒で殺すように、坪野哲久は、短歌によって、人間の内に清き純正を呼び覚ます。
そして、これは、そのための短歌だったわけでもあるまいに、人生の苦憂の抗生作用ともなるのである。