
目 次
短歌は身をめぐる世界を新しくできるのか
うつくしきものにやすらふ蝶のつばささだめなき生(よ)のいのりのごとし(坪野哲久)
邑書林『留花門』
(染慧抄)より
短歌をじぶんもつくりたい、
となって、わたしは、自己検証を強いられた。
言語領域において、わたしは、これまでどれだけの評価を得てきたか。
とんでもない思い上がりだった。
ここでどうして「蝶」に「つばさ」を描ける。
この世界が新しい。
破調による清澄な調べ
ここでどうして「蝶」に「つばさ」を描ける。
これが“はね”だったらどうか。
「うつくしきものにやすらふ」ことも、それが「いのりのごとし」であることも、“はね”だったら強弁になってしまう。
また、“はね”にしておけば、定型におさまってくれるわけであるが、破調であることで、より清澄な調べになっている。

わたしではこんな歌はつくれない。
なぜ
ほんとうに
わからない
その才能がないからだ、
としたっていいっちゃあいいが、では、坪野哲久はなぜこんな歌をつくれるのだ。
坪野哲久は、才能の多寡でおしまいにできない。
雪で火が生まれるわけは
また、坪野哲久に、こんな一首もある。
松ばやし松の落ち葉のくれなゐの炎(も)ゆがにおもふこ雪ふれれば(坪野哲久)
同歌集の(輪島まで)より
<「雪」は旧字体です>
雪がうすくかかる地に仮借のない炎の見える人がいたのである。
思いのたぎりと奥ゆかしさが交響して、その高貴なことに、息がつまる。
不肖わたくし式守にも、このようなイメージが、ないでもない。
だが、それは、ただの空想である。
坪野哲久のこの一首は、架空と言えば架空なのであるが、ひとびとに、これを美しい幻想として見せてしまえるところが違う。
「つばさ」もそうなのだ。
ぼろきれが内臓のわけは
美しい幻想を見せることで、その「見せる」は、非才のわたしでも、困難ではあろうが、修練次第で不可能ではないかも知れない。
しかし、
そも美しい幻想をどれだけ生み出せる。
学んで生みだせるもんか。
ぼろきれを乾かしあるは人間の臓腑さながらに看て怪しまず(坪野哲久)
同歌集の(心に觸れ)より
<「臓腑」は旧字体です>
「ぼろきれ」を干すのはなぜ。
貧困か。吝嗇か。
そんな話ではない。
事実、結句に、「看て怪しまず」とあるではないか。
「ぼろきれ」に「臓腑」の幻想を生みだしておられる。
それが、この「看て怪しまず」ではないか。
坪野哲久なる歌人が常に何かに熱く感銘を覚えていることに搏たれる、これは、偉大な一首だと思われるが、どうだろう。
それは畢竟、生命というものを、五体から心の隅まで燃やし尽くすように感受しているからかと。……
生命というものを疑ってみる
まずもっと生命というものを疑ってみよう。
たとえば、こんな一首。
あかねぐもながらふるいろのたふとくも屋根草のへに蟲いこひをり(坪野哲久)
冒頭(染慧抄)より
人間とは界が異なる「蟲」は、はかない生命である。
……?
そうか?
「蟲」にしてみれば、大きなお世話だろう。
燐家に、三千歳の老爺がいれば、そんなに生きてたのしいか、となるではないか。
「あかねぐもながらふるいろの」の下では、生命の「界」など存在していないのである。
この「界」をいったんとっぱらう。
そこに新しい世界はあるか。新しい世界に心の目を見はることはできるか。