
目 次
その上空でリラックスして短歌が感知される
円を描きまつたき円の生(あ)れざるをたのしむ円の無限のかたち(坪野哲久)
タイガー・プロ『碧巖』
(律五章(落首))より
なかなかまんまるに描けない。一つとして同じ円がない。たのしい。
平明に言えば、歌の格調を損なうようで気がさすが、まあこんなところか。
ちょっとその上からあらまあと俯瞰なさったんだろうなあ。
だが……、
そういうこと以上の何かが、この一首にないか。
いや、坪野哲久ご本人に、そんなつもりはないかも知れないが。
だったらそれもすごいなあ。
完璧な円は存在しません
完璧な円を人間は手描きできないのである。
コンパスを使えばいい? そんな話ではありませんね。手描き、手描き。
完璧な円が生まれない。
でも、そもそも坪野哲久は、完璧も何も円そのものを必要に迫られて描いたわけではないのである。
されど、いくつもの円を、坪野哲久は、ぐるっぐるっと描いてみたのだ。
坪野哲久ともなると、こんなことも詩に収められるようだ。

では人前で字を書けないことは詩になるか
唐突に
短歌のおけいこをはじめます
わたしは、人前で文字を書くと、文字がふるえることがある。
緊張してしまうのだ。そして、横棒を波線にしてしまう。
<草稿>直線が波線になるあわれあわれこの右の手のナンタラカンタラ
こんな短歌じゃだめだろう。
作者(わたくし式守であるが)は、人目におびえて、まっすぐ線を引けないようだ。で、やだな、と。
また、こんなことを歌にしたいのか、という問題もあるか。
<手直し>伏せている頭上は人の目が見えるまっすぐ線をナンタラカンタラ
ますますおもしろくなくなる。
何よりも、であるが、わたしが感知した詩の成文に、かわいそうなボクなんてない。
人前で書く字をたのしんでしまう
わたしは字のふるえに何を思った。
これではいけない、と思った。人前で恥ずかしい、と思った。
それはいい。でも、ここに詩はない。これを克服したい、との動機は詩とは別の位相にある。
わたしは、字がふるえるが、この緊張のばかばかしさに、この世の、あるいは人間の「真理」が隠されている気がして、それは詩を覚えた。
人生に必須でもないのに、ふるえてはいけない縛りなど、いったいなぜどこで生まれてしまう。
おけいこはつづいています
<草稿2>横棒がぶるぶるになる
こんな書き出しの方がまだよい。
あ、いや、よくもないが、こんな初句であれば、作者(わたくし式守であるが)が、「横棒」をたのしんでいる気配が出る。
それをたのしんで、それを歌にする
坪野哲久のお手本を読み返してみたい。
円を描きまつたき円の生(あ)れざるをたのしむ円の無限のかたち
おお、ここに、「まつたき円」がないぞ、と。
どころか、中にはひどくぶかっこうな円もあったい違いない。
それを「たのし」んだ。
「無限のかたち」なんて表現は、そんな過程の、その果てに生まれたんじゃないのか。