
目 次
短歌で人間が先に砕けることを
ひたむきに鏡をみがく底ごころ得堪えぬ我にふれじと磨く(遠山光栄)
東京堂出版
『現代短歌の鑑賞事典』
馬場あき子【監修】
遠山光栄・<秀歌選>
(『杉生』昭和18)より
胸のうちに慰めの言葉を探さないではいられない。
されど、その声を、かけることはできない。
本来であれば、鏡こそが、いつかは割れることもある物体であるが、何か下手な声を<わたし>にかけたばかりに、<わたし>が、鏡の前で砕けてしまいかねないからである。

冥(くら)きなかより水おとのたつ
やがてわが頭蓋も浸りゆくべくて冥(くら)きなかより水おとのたつ(遠山光栄)
(『褐色の実』昭和31)より
あたりが暗く静かな中を「水おと」がある。
生活相の中を呼吸しておいでではないのである。
<わたし>が水没してしまう始まりだ。
で片付けられない
水没を避けられそうもない「水おと」ではないか。
<わたし>に、それは、単なる心象風景ではないのだろう。
やがて頭蓋は浸る

かかりそめし雪片
店先の菠薐草(ほうれんそう)にいますこし前からかかりそめし雪片(遠山光栄)
(『褐色の実』昭和31)より
おそらくは八百屋の「店先」か。
身が細り心も萎えれば、その外周に、感覚も研がれてくる。
「店先」の上空は、さびしい灰色の空が去来して、あたりは、雪がひとしきりおおう時間が約束されている。
ほんとうはひとひらの風花程度だったのかも知れない。
が、<わたし>に、これは、実景に違いない。
雪は降り積もる

我にふれじと磨く
ひたむきに鏡をみがく底ごころ得堪えぬ我にふれじと磨く(遠山光栄)
自分の姿に当らないように鏡を磨くの~
それが鏡の中でもやなものはやなの~
休憩の話題にできる話じゃないな
繊細と言えばまことに繊細であるが、わたくし式守に、<わたし>を、ただ繊細なるは苟合しない。
<わたし>に、繊細は、あたかも試練だった。
その試練に、<わたし>は、恭順の意があるからである。

繊細→試練→恭順
遠山光栄は、あきらかに病んでおられた。
そこに立ち入ることたとえ故人でもご無礼であろうが、それは、痛ましいほどだった。
しかし、ご自分を、けして隔離することなく、短歌なる音響の中で効果的に調和させることを怠っていなかった。
枯芝につづく平(たひら)は土の肌あらあらとして昃(かげ)るをりふし(遠山光栄)
(『青螺』昭和39)より
一枚の硝子戸へだて降る雪をふたたび見たるとき乱れ降る(同)
(『陶印』昭和49)より

薄明のなかに
骨の鳴る音をききたり薄明のなかに頭(かうべ)をめぐらしたれば(遠山光栄)
(『陶印』昭和49)より
淡白な調べのなかに、今の<わたし>の実体の、それも委細までが、目に浮かぶようだ。
「薄明り」に、それが日の出か日の入りかはわからないが、身の回りをたしかめてみた。
「骨の鳴る音」が、いまここにたしかに生きている実体のあることを、<わたし>に告げる。
遠山光栄
ここに引用した短歌は、昭和18年から昭和49年までの経過がある。
遠山光栄は、戦後を生き抜いて、高度経済成長を駆け抜けた。
遠山光栄は生き続けた
