
目 次
何から何まで魅力的
雪を食へばしらゆきひめになるといふわが嘘を聞く耳やはらかし(時田則雄)
第26回(1980年)
角川短歌賞
「一片の雲」より
何から何まで魅力的な歌である。
わたくし式守は、この一首のどこがどう魅力だったか、ここに整理して書き残しておくことを試みたい。
1 嘘なの?
2 娘の耳よ
3 それって新たな発見だった?
「嘘」という一語
その嘘はこうだった。
「雪を食へばしらゆきひめになる」と。親はまだ小さなわが子にこんな嘘をつくものだ。
世間に流通している「しらゆきひめ」なのか。<わたし>のオリジナルの「しらゆきひめ」なのか。
でもさ~
これ、嘘ってよりも、ニュアンスとしては、作り話なんて言われているところのものなんじゃないの?
でも、<わたし>はこれを、そのまんまズバリ「嘘」と。
この「嘘」なる一語がたまらなく魅力的なのだ。
この「嘘」一語で、<わたし>が、娘を前にして、もうかわいくてしかたがない様子を鮮やかに映し出している。
と、読めたのだ。
そう読めないかな~
読めるんだけどなあ~
娘の耳は
わたくし式守にはもうそこにないが、おそらくは、<わたし>にももうなかろうかと。
娘さんのほんとうの耳は、まだおさない心の一番奥にあろうか。
そこでは、嘘を、嘘と思わない。
その耳が、<わたし>の話に、真摯に耳を傾けた。
と、読めた。
娘さんもやがては、これを、な~んだ嘘だったのか、とわかる時が来る。
心の奥はやがて、嘘を見分けるセンサーが、取り付けられるからである
雪を食べて白雪姫になるわけがない、となるわけだ。なってしまうわけだ。
「しらゆきひめ」は正に子供騙しなのである。
が、嘘だったことで、<わたし>が憎まれることは、まずあるまい。
嘘が事実に勝つ

それは新たな発見だったのか/それとも
読み返す。
雪を食へばしらゆきひめになるといふわが嘘を聞く耳やはらかし(時田則雄)
おさない娘さんのそれはもう薄い素直な耳朶が目に見えるようである。
しかし
「やはらかし」は、実景であったとしても、と同時に、心の奥の目に見えない、ゆえに形をもたない耳の印象でもあろうか。
かるい羽のように風にふるえているのが正に目の前にある心象風景の。
でも、これ、初めて知った耳?
既に知っていた耳?
とっくに知っていたが改めてそう思ったんだろうね
「やはらかし」と。
「嘘を聞く耳やはらかし」と。
お父さんの「しらゆきひめ」
<わたし>は、そうと思ってもいい措辞はどこにもないが、娘さんを、もう「しらゆきひめ」なる「ひめ」になさっておいでなんじゃないのか。
娘さん本人も、父のその愛に、疑いはない。
父に娘とはかくも愛しいらしい。
むろんこれが悪かろう筈もなく。
