
目 次
未来は明るくない

「不器用に俺は生きるよ」またこんな男を好きになってしまえり(俵万智)
文藝春秋
『会うまでの時間』
俵万智自選歌集
「チョコレート革命」
(ぬるきミルク)より
男と明るい未来のないことを「また」してしまったわ、と。
まこと大きなお世話であること、百も承知であるが、このように言語に頼る、そしてたしかに「不器用」である「男」に、<わたし>は、弱いのだろう。
「俺」なる「男」は、内省的に、自身を、「不器用」と自己規定する。
ちゃんと「生き」ておいでの「男」なのである。
されど、「不器用」には、自分の人生は守り通して、それでいて、お相手をきっぱり断つことはしない、なんてこともあったりする。
大きなお世話ついでに
「不器用に俺は生きるよ」またこんな男を好きになってしまえり(俵万智)
<わたし>に、明朗な未来は、ここに閉ざされた。
相思相愛ではあるかも知れない。が、たとえ相思相愛であっても、<わたし>に憂いのない未来は用意できないよ、と。
そんなこんなか。
母性を手玉にとって、女を、いいようにこましているわけではないところは買うが、
にしたって、
ひとさまの男を悪く言っちゃいけませんね
ご自分も不器用である

葉月里緒菜(はづきりおな)になれぬ多数の側にいて繰り返し読むインタビュー記事(俵万智)
「同」
(チョコレート革命)より
2003年より表記は「里緒奈」に変更
何も<わたし>ばかりではないのである。
俵万智だけの話ではありません。
(ここからはもうはっきりと俵万智)
どういうこと?
魔性の女の話だよ
「恋愛相手に奥さんがいても平気です」by葉月里緒菜
市井の実話に、魔性の女を生きることになってしまう女が少なくないことを知るではないか、ある年代以上になれば。
葉月里緒菜(はづきりおな)になれぬ多数の側にいて繰り返し読むインタビュー記事(俵万智)
「葉月里緒菜(はづきりおな)になれぬ多数の側にい」るのであれば、文学的にはいざ知らず、実人生としては、さしあたりめでたいことではないか。
されど、市井に生きていても、葉月的人生は何たるかを探らないではいられなくなることが、この人生は、発生することがあるらしい。
蜂と蜜

まつわりて離れぬ蜂よ蜜のごとく甘き何かが我にもあるか(俵万智)
「同」
(チョコレート革命)より
あるか、って言われたって、あなた、あるんじゃないですか、たっぷり。
ただ、蜂次第でしょうけどね。
現にほれ、ここに、わたくし式守は、俵万智なる「蜜」に「まつわりて離れぬ蜂」である。
そういうことじゃありませんね
わたくし式守は、「不器用に俺は生きる」なんて、羞恥が枷となって、口にしない蜂である。
っつうか、できない。
っつうか、もとよりしたくない。
俵万智の物語の登場人物にはなれないのである。
こうも言えようか。
たとえば、俵万智なる「蜜」は、わたくし式守がごとき「蜂」であれば、その人生に恋愛の受難は避けられる、と。
伝書鳩のように帰宅するボクだから

骨の髄まで求めないではいられない

骨の髄味わうためのフォークありぐっと突き刺してみたき満月(俵万智)
「同」
(だれもいない)より
隠しようがない<わたし>が顕ちのぼった。
この一首は、殺伐とした外観の露骨な恋愛表現に落ちていない。
先頭の一首を読み返してみる。
「不器用に俺は生きるよ」またこんな男を好きになってしまえり(俵万智)
どなたの「骨の髄」を味わうかと言えば、たとえば「不器用に俺は生きる」の「男」、と考えるのが自然であろう。
まだ若い時分であれば、そのおもいの激しさが、ここまでおれを、なんてうれしくなることもあろうか。
しかし、健全に育つ蜂は、蜜にも毒があることを知れば、できるだけ毒の成分が少ない蜜を選ぶのである。
蜂は、蜜を好むが、蜜をなめることに伴う面倒は嫌うものなのである。
俵万智の短歌の寸法
俵万智の短歌は読解しやすい、とされているし、事実、それをもって多くの読者を獲得した。
骨の髄味わうためのフォークありぐっと突き刺してみたき満月(俵万智)
これもまたそうか。
そして……、
恋に苦しむ自分を偽らない
聞えよがしのため息などついたことがない
きつくきつく我の鋳型をとるように君は最後の抱擁をする(俵万智)
「同」
(晴れ女)より

俵万智は、短歌に、その寸法にちょうどよくあてはまるような恋愛など詠んでこなかったのである。
俵万智の短歌の現在・過去・未来は
白和えを作ってあげる約束のこと思い出す別れたあとで(俵万智)

そこを逃避しないで、俵万智は、これを、決然と短歌にしてきた。
その外観はしかし、明治期の女性は着ることがない衣装をまとっていて、俵万智の登場当時は、それゆえ奇異に目に映ったが、なに、そんなものは末梢神経ではないのか。
建築技術の、その根幹は、古代の昔に、既に完成を見ている。
現代建築の発展は、その末梢部分に過ぎないわけだ。
されば、俵万智の「新しさ」は、ただただ末梢部分で、根幹は、万葉の歌人たちと遠く離れてはいないように思うのであるが。