
息が止まるコントラスト
姦しき身の裡の声窓に寄れば雲無き空が青過ぎてゐる(田名網順子)
ながらみ書房『短歌往来』
2026年11月号
「化粧」より
「身の裡の声」であれば、人が集まっておしゃべりが過熱しているわけではなさそうだ。
が、自分の「身の裡」には言いたいことがたくさんあって、それを制御できないでいるのだろう。
窓に身を寄せてみた。
外の空が青い。が、ただの青空じゃない。「青過ぎてゐる」と。
姦しいほどの内なる声など何事でもないように空は澄み渡っている。
いくら言葉を尽くしても歌人として宇宙大のサイズを思えば小さなものだ。
心情がどんなものだとしても、この歌を、一読して終わりにできなかったのはなぜなのか。
なぜ?
初句に「姦しき」を配置している妙
本来の意味とのギャップがおもしろい
「姦しい」は通常、女性が三人集まると賑やかである、との意味で、そう言ってしまうと不愉快な女性もおられようが、他者とのおしゃべりであることは確かである。
その姦しいを「身の裡の声」にぶつけた。
「身の裡の声」となると、内省や孤独なのであるが、それを「姦しき」とするギャップの鮮烈なこと。
脳内には、たとえば割り切れない思い、自己矛盾、または過去の後悔などもあろうか。
要するに、言葉にならない衝動で、あたかも何十人もの人間が同時に大声でまくしたてて渦を巻いている印象を持つ。
「窓に寄れば」への劇的変化
視点が一転する。
歌の構造が、前半は、内界にクローズアップしていたが、後半は、外界のロングショットへ劇的なまでに切り替わっている。
自分の内側のうるささに耐えかねたのかどうか、作者の田名網順子さんは、ふと我に返った。
外界への逃げ道として「窓」に身を寄せたようだ。
作者もまたそうであったからと思うのであるが、読者は、ここで、鮮やかな解放感を得る。
「青過ぎてゐる」という主観と客観のねじれ
ただの青ではない。
空が青い、と言えば、これは客観的事実である。
が、「青過ぎてゐる」と。
尋常じゃない青が、こう表現された。
となると、この空の青さは、もう主観である。
主観であれば。空の青さへの不満や戸惑いがあろう。
自分の心はかくも混沌としているのに、目の前の世界の空は、一点の曇りもない。
完璧な青の美しさが空に完成している。
されば
この空の美しさは、人間に冷淡である。
そうではないか。
自分の内側と外の世界
いくら言葉を尽くしても宇宙大のサイズを思えば小さなものだ。
自分の内なる声は、自分にとってはたとえ命がけのごとくでも、せいぜい「姦しき」ものに過ぎないようなのだ。
事実、一歩外に出れば、空(宇宙)は何事もないようにただ青く存在しているばかりではないか。
読み返す。
姦しき身の裡の声窓に寄れば雲無き空が青過ぎてゐる
内面の激しいノイズ(主観)は、窓の外の、圧倒的に冷徹な青空(やはり主観)によって一瞬でミュートされた。
自分のちっぽけなノイズなど、この巨大な青に溶かしてしまえ。
かくして読者たる筆者は、この一首に、名状しがたいカタルシスを得られた。



