田宮朋子「ごめんください、猫ゐますか」少年の日のつばさよ

尽きない魅力

田宮朋子「ごめんください、猫ゐますか」少年の日のつばさよ

「ごめんください、猫ゐますか」と子どもらが遊びにやつてくる春休み(田宮朋子)

柊書房『星の供花』
(言葉のひかり)より

何度読んでも尽きない魅力がある一首である。

何度も読んで、あれこれ思うことの、どこがどう好きかの整理ができた。

今回はそれを。

これ
ぜったいいい歌だと
思うんだよなあ

子どもなのに/子どもだから

「ごめんください、猫ゐますか」と子どもらが遊びにやつてくる春休み(田宮朋子)

少年時代のわたしは、礼儀正しい子だったが、「ごめんください」なんて挨拶をしたことがない。

ごめんくださいだよ、ごめんください

こまっしゃれた子?

そこがまたかわいいの

「ごめんください」なんて挨拶ができるのに、続きは、単刀直入に「猫ゐますか」ときた。

「ごめんください」なんて挨拶から入ったのであれば、「また猫ちゃんに会わせていただいてもよろしいでしょうか」とくるもんなんじゃないのか。

それじゃ痛ましいの

で、「猫ゐますか」がすばらしい。

少年でも少女でも

最近は読まなくなってしまったが、わたしは、吉川英治の愛読者だった。

吉川英治にこんな一文がある。

私は、元来、少年小説を書くのが好きである。大人の世界にあるような、きゅうくつな概念にとらわれないでいいからだ。
少年小説を書いている間は、自分もまったく、童心のむかしに返る、少年の気もちになりきッてしまう。
(中略)
少年の日の夢は、痩せさせてはいけない。少年の日の自然な空想は、いわば少年の花園だ。昔にも、今にも、将来へも、つばさをひろげて、遊びまわるべきである。
(後略)

吉川英治『神州天馬侠』
「序」より

「猫ゐますか」は、この心情に通じていないか。

すなわち……、

「きゅうくつな概念にとらわれ」ていない

「つばさをひろげて」いる

目的は猫

田宮朋子「ごめんください、猫ゐますか」少年の日のつばさよ

飼い主の田宮朋子さんのお宅にお伺いしよう、
とは言っていまい。

おばちゃんの猫に会いに行きた~い、
なんてところか。

図々しいなあ、なんてこれっぽちも思えない。飼い主たる田宮朋子にして、メンドクサイなあ、と思っていないではないか。

そのあたりがよく伝わるのもいいなあ

「ごめんください、猫ゐますか」と子どもらが遊びにやつてくる春休み(田宮朋子)

ほれ、ほれ。
<わたし>も心が躍っている。読者たるわたくし式守もまた。

一気に読み下すって効果的だなあ

春休み

「春休み」がまたすばらしいのである。

この一首の世界に、悪意というものは、存在していないのか。

悪意など存在していない世界の、そこに、春休みだよ、春休み。

「ごめんください、猫ゐますか」と子どもらが遊びにやつてくる春休み(田宮朋子)

でも、これって、チープじゃないか。
いや、そうではない。そうではないのだ。

これをチープとしか思えないとしたら、それは、「大人の世界にあるような、きゅうくつな概念にとらわれ」ているからだ。

だめだぞ、それって。

ということで、
田宮朋子の、
わたくし式守は、こんな歌も大好きである。

つばさがひろがる

田宮朋子「ごめんください、猫ゐますか」少年の日のつばさよ

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