
目 次
かなしみかたがたりない自覚の価値
頬杖をつきつつまたもおもひをり わたし、かなしみかたがたりない(田宮朋子)
第48回(2002年)
角川短歌賞
「星の供花」より
ほんとうに「かなしみかたがたりない」かどうかは知らない。
ご本人は、「たりない」との結論なのである。
そして、「またも」とあるからには、これは、初めての自問ではないようである。
「たりない」も何も、今以上の「かなしみかた」をすれば、それは、演技ということにならないか。
もちろんそんな話ではない。
おやさしいのだ。
何かに対して負い目を正しくお持ちなのだ。
その何かとは、自分ではもうどうにもならないことでも、どうにもできないことで、ご自分に負い目を持つ、というような。
わたくし式守は、この一首が、もう何年も頭から離れないでいる。
(そもそもこの連作「星の供花」が数ある短歌の連作の中で大好きな連作なのである)
にしても、頭から離れない、それはなぜなのだろう。
そのなぜかが、最近、少し見えてきた。

これ以上のかなしみとなるとそれは
早速、読み直す。
頬杖をつきつつまたもおもひをり わたし、かなしみかたがたりない(田宮朋子)
「かなしみかたがたり」ていようが、いなかろうが、今ある以上の「かなしみかた」は、自分自身への欺きだろう。
世間に向かって演技する必要でもあれば、話はまた別で、欺きも、大人の事情があれば避けられないことだってあろう。
何か転機があったのだろう。
転機は、強制的に、自分を見つめなおすことを要求する。
「星の供花」を推理劇にするつもりはないが
次の一首が、先頭に引いた一首の次に並んでいる。
寺に生れ寺を離れし姉とわれ会ふをりふしに寺をかなしむ(田宮朋子)
また、先頭の一首のすこし前の方になるが、次の二首。
火の鳥のかたちに光る東雲(しののめ)を見たりき吾子の葬りの朝に(田宮朋子)
火の鳥を見し朝(あした)火の鳥となりて翔びゆくまでの生はや(同)
この先に
<わたし>は、ご自分の内を、次のように見るに至った。
揺れうごく心の隙の地のこころ満たすべき花なしとせなくに(田宮朋子)
満たすべきである花などない、とのお考えではないのである。
では満たすべき花はどこに
揺れうごく心の隙の地のこころ満たすべき花なしとせなくに(田宮朋子)
いい歌だよなあ。
上句の心象に想像が届く。
心情に想像が届く。
これは、<わたし>の内にある<わたし>の影であろう。
が、<わたし>のやさしさが和やかにこぼれるのは、この影においてらしいのである。
されど、「満たすべき花なし」はいかんともしがたく……、
頬杖をつきつつまたもおもひをり わたし、かなしみかたがたりない(田宮朋子)
私的な感情が、次第に、人間として人間への愛情をいっぱいに抱き入れている一首に姿を変えた。
<わたし>のかなしさに感謝していた
少年のおもざしに立つ菩薩像臓器をもたぬその腰ほそし(田宮朋子)
みほとけはうつつならぬがあはれにて祈りのかたち求(と)めて旅ゆく(同)

「少年のおもざし」があっても「菩薩像」はあくまで像であってこの世を生きる人間の実体ではない。
「みほとけは」あくまで「うつつならぬ」存在である。
「かなしみかたがたりない」思考法に、何か後天的な事件がなかったことはあるまい。
それはたとえばこのような。
先に引いた二首はわが肺腑を破るが、それは、たとえばこのようなことあって。
火の鳥のかたちに光る東雲(しののめ)を見たりき吾子の葬りの朝に(田宮朋子)
火の鳥を見し朝(あした)火の鳥となりて翔びゆくまでの生はや(同)
しかし、だからと言って、身の窮巷に、これだけのかなしみを負って、身をめぐる時空をば、人一人が、こうも俯仰できるものだろうか。
子への
この人生への
かなしい負い目
わたくし式守は、「かなしみかたがたりない」姿に、<わたし>の人生への、どうともできない心情を見て、その心情に搏たれたことあまりの衝撃度だったがゆえに、いつまでも頭から離れないのだろう。