
目 次
短歌の神秘性と交感する
「夕焼け」といふ古書店の奥ふかき机にしんと人はをりたり(竹山広)
柊書房『遐年』
(夏至前後)より
ブックオフにいると「いらっしゃませ」の谺がある。
ブックオフが舞台で「人はをりたり」としても、詩にはならない。
この「夕焼け」では詩になる。
「しんと」が、正に「しんと」なのである。
わたくし式守は、ここで、短歌の神秘性と交感できた。
なぜ?
短歌の神秘性に身を委ねる

棚にぎっしりと本の背が並んでいる。
人の熱鬧も喧囂もこの一角に忍び入ることはできない。
「夕焼け」とは店名である。
この一首の時間が夕刻だとは言っていない。言っていないが、オレンジの光が本の背をゆっくりなめているのが目に映らないでもない。
そもそもここに時間というものがあるのか。
ずっと「夕焼け」に思えてもくる。
むろん時間はあるのである。
「しんと」ではあるが、確かな存在の時間が、ここにはある。
短歌の神秘性に「しんと」身を委ねることになる。
存在の無から有

「夕焼け」なる「古書店」に入るまで、その「人」の存在は、作者・竹山広になかった。
読者・式守にもなかった。
しかし、そこに、すでに存在はあったのである。
その存在は、その「人」が、目の前に出現したことによって神秘性を帯びた。
いや、人智を超えた何かは、その存在を、知らないことはなかったであろう。
模糊とした金色の雲に、人智を超えた、その何かとやらは、隠れていたのかも知れない。
が、その「人」なる存在を、作者・竹山広が知るに至るには、何らかの働きを必要とした。
どんな働きがあった。
それは人間にはわからない。
この一首の「人」の存在を出現させるのに、小説もあればコミックもあろう。
映画もあればアニメもある。
散文詩もまた、それを、可能にするかも知れない。
短歌もまた。
現にここに。
では、この一首の出現は、いったいどんな働きがあった。
5・7・5・7・7の無から有

この一首が竹山広の工房でいかに製作されたか知ったところで、同じ真似は無理である。
あり得ない。
この一首は、いや秀歌であると格付けされる短歌は、なべてそうなのだろう。
なぜ、となれば、それは、最初から完成品として、5・7・5・7・7に、とっくに収まっていたからである。
工房も何もないのだ。
ところどころは、ぼんやり見えるだけだったものもあるかも知れない。
なにかに覆われてしまっていて。……
が、それを取り払えば、短歌の器に盛りつけられるものが、完成品としてすでにもうあるものなのである。
難しいのはよくわかっているが。