
目 次
短歌には音楽性が必須らしい
にんげんも危険ですねといま妻が電話に語りゐるのは誰か(竹山広)
柊書房『遐年』
(ああ極楽)より
おもしろい……。
「危険」て何よ。
「誰」よ。
「にんげんも」の「も」も何だかおかしい。
そして、このリズム……。
愛すべきご夫婦
世間の声は持回りである。
こんなことがわたしたち夫婦にもあったとする。それを酒席で話題にしたとする。
盛り上がると思う。
夫婦の潮路のかなたは、こんな愛すべき場面があることに、わたくし式守は、驚嘆さえ覚えた。
韻文であること

芸人がこれを話せば、笑いのサイズはもっと大きくなるだろう。
芸人は、わたしより話をおもしろくするリズムを知っているからだ。それだけの稽古を積んでいるからだ。
でも、詩ではない。
歌人が、この話題を詩に収められるのも、詩に収まるようにリズムをつけているからだ。ここをいかに表現すべきか、多年にわたる研鑽工風があるのであろう。
それが韻文か
わたしは、歌作において、韻文でつくっていない。
なんてつもりはないのであるが、詩の収まるリズムになっていない。
酒席の与太話である。
与太話もたのしいが
唐突に
短歌のおけいこをはじめます
<草稿>妹に赤は進めと忠告をされる姉とはどんなホニャララ
こんなんじゃだめなわけだ。
にんげんも危険ですねといま妻が電話に語りゐるのは誰か
やっぱりこっちは詩になっている。
この一首に、<わたし>の属性は詳しくないが、<わたし>の年齢、風貌まで目に見えるようである。
この一首に、わたくし式守は、凡下の極み、されど浄きを守る、ゆえに聖性がある、なんてことまで覚えられるのであるが。
韻文であり詩であること
つまりこうだ。
歌を作らんと欲すれば、歌の対象を、対象の構造を、着手から着地までずっと、韻文という位相空間で見る必要があるわけだ。
酒席でたのしかった出来事を話すように短歌にしようとしても、そこに、詩は、生まれないのである。
いや、生まれようがない。
短歌という詩の特性に照らしたところの音楽性がないのである。
そんなつもりなどもちろんないのであるが、わたくし式守は、5・7・5・7・7と指を折って要約を(要約なのである)しては、それだけで、一首でけた、なんてしてしまっているのである。
つまり、短歌は、その程度のシロモノではない。