
目 次
異界のやうに明るい本屋
『老いてこそ人生』といふ本を積み異界のやうに明るい本屋(竹山広)
柊書房『遐年』
(彼岸花)より
<わたし>は、ご自分が、この『老いてこそ人生』なる人生とは思えないでいるのか。
『老いてこそ人生』を覆う光がこんなに明るい。逆に、「老いてこそ人生」もあるまいに、と。
と、わたくし式守は読んだ。
還暦が目の前のわたしにしてからが、こんな光に囲まれているところでは、この書の住人になれる気がしない。
「異界のやうに明るい本屋」の中で、「老いてこそ人生」と謳われたってなあ、というわけだ。
もっともそこがおもしろく読めたのであるが。
「老いてこそ人生」という人生は、たしかにある、とは思う。それも少なくなくある。
そうであってほしいし、そうありたいと思うこと、余人の幾倍も強くある。
あるが、でも、このタイトルからして、所詮は修辞で、現実の話として、麒麟も老いれば駄馬になるのがおおかたではないのか。その駄馬に、晩節の麗しい香を、人は、欲ふかくも願っているのではないのか。
では、歌人・竹山広の「老い」は、いかなる老いなのか。
いかなる
やうやくくる眠りあり
「老いてこそ人生」と思はざるわれに待ちてやうやくくる眠りあり(竹山広)
『同』
(師走日日)より
ご本人は、「老いてこそ人生」などとこれぽっちも思っちゃいないのである。
と、わたくし式守は読んだ。
しかし
このように一日を終える。なかなか眠りにつけないが、ここに、焦燥は見られない。
「やうやく」と詠まれているが、これは、然るべき時をただ待った泰然とした心情なのではないか。
この境地は、その人生に、迷執をついに振り払い得た静寂もうかがえないだろうか。
よって
この一首の方が、「老いてこそ人生」なる言葉(ここでは本のタイトルであるが)よりずっと憧れを持てる。
「老いてこそ人生」などと考えてもいない心情(上句)に、たかだか眠りをついに得る心情(下句)が溶け合うことで、こうも風格が帯びるとは。
と思ったのであるが、どうだろう。
老いて清浄孤寂な風格
八十三歳(はちじふさん)の心とからだ仲のよく弱りて昼もころころ眠る(竹山広)
食ひて臥すのみなるわれにのしかかりゐし八月も過ぎてゆきたり(同)
念念に日照りの熱を放ちゐむ瓦をおもふその下に寝ねて(同)
いずれも
『同』
(魔界)より

心とからだ仲のよく弱りて
八十三歳(はちじふさん)の心とからだ仲のよく弱りて昼もころころ眠る(竹山広)
戦後の高度経済成長期でもあるまいに、わたしは、働きづめに働いていた。
思い返すと腹が立つ。まったくいまいましい。
あの頃にああ働いていなければ、妻のことをもっとケアして、もっと元気な今を妻も得られていたのではないか。
心身を酷使してきた疲労が、あっちにこっちに表れて、最近、その度をますます加えてきている。
そこに、「心とからだ仲のよく弱りて昼もころころ眠る」を読んだ。
いいなあ、八十三歳(はちじふさん)。

どうしてこうなれる?
嘉言善行を
見聞したが如き
慰めを得られる
食ひて臥すのみなる
食ひて臥すのみなるわれにのしかかりゐし八月も過ぎてゆきたり(竹山広)
地球は、年毎に、夏の暑さを増しているのである。
何がさて、暑いのである。
が、これは不可避のものだ。天には逆らえない。
そこに、「食ひて臥すのみなるわれ」を読んだ。
食っちゃ寝、食っちゃ寝なのに、猛暑がのしかかっていた、と読むのではなく、猛暑がのしかかっていたが、食っちゃ寝、食っちゃ寝していた八月でしたよ、と。
と、わたくし式守は(つまり逆から)読んでみたのである。
いいよ、食ひて臥すのみ。

これでいいんだ
ああ
まったく
慰められるなあ
日照りの熱を放ちゐむ瓦をおもふ
念念に日照りの熱を放ちゐむ瓦をおもふその下に寝ねて(竹山広)
ついには家屋と、ひいては天体と一体化してしまうかの横になり方だ。
働きづめに働いたことをさっき悔いたが、今も、働いている。
清掃作業員として、屋外作業をすることが、たとえ猛暑でも少なくない日々を送っている。
草も木も猛暑に萎えている。
とも言えないが、草や木が同志とも思えることがある。
空の果てから果てまで見渡せば、おれはもう、何もかもおしまいだ、とさえ思うことがあるのである。
しかし、永遠の話ではない。休憩もなく鞭を打たれながら働いているわけではない。
やがて屋根のある涼しいところに身を移す。
何とかしてくれ~、と。
<わたし>は、この猛暑に、「日照りの熱を放ちゐむ瓦をおもふ」が、読者たるわたしには、人間たちの不平から離れた、清浄孤寂な姿とも目に映ったのである。
それはもうほとんど風格である。
いいなあ、八十三歳(はちじふさん)。
風格だ!
