
目 次
短歌に健全と不健全が境を極めている
三十五度の厨にて妻が作りたる一皿一皿がんばつて食ふ(竹山広)
柊書房『遐年』
(夏日日)より
どこにもそうと書かれていないが、<わたし>は、あまり食べられないのだろう。
それに、かなり暑そうだ。
でも、その暑い中を、「妻」は、作ってくれた。
だから「がんばつて食」った。
なにしろ「妻」は「三十五度の厨」におられた。
健全と不健全の境をなしているではないか。
わたくし式守は、このような話にめっぽう弱い。

二律背反である
「がんばつて食ふ」んだから、ほんとうは、<わたし>は、食べるのがきついのだろう。
そうとまで描写してはいないが。
小食なのかも知れない。
そのような体調、あるいは、もともとが、そのような体質であるのか知れない。
でも、それではたとえば体力を落としてしまう。
だからこそ「妻」は、「一皿一皿」作ったんじゃないのか。
こちらもまた、そうだとの描写をしてはいないが。
現代日本の二律背反
こんなタイトルの記事がある。
アパレル不振の根源「作りすぎ」、作らなければ利益激減 この二律背反を解決する方法
Diamond Retail Media
2021/01/12
つまり経済の対策とコロナの感染拡大との二律背反である。
次の一文を起点に展開されている。
新型コロナウイルスで失業者が増え、企業業績が悪化しているからこそ、国民は経済活動を優先させるという負のサイクルに入っている。
同記事より
こちらの二律背反は統一された
「妻」による、たかだか食べなさい、ということなのである。
「妻」の無言の命令一つには、二人で踏み歩く道に、<わたし>の幸への祈りがこもっている。
ひいては、読者たる式守に、一穂の灯を点した。
こちらの二律背反は、二人の人生の重みによって、ここに統一された。
短歌だからできる
単純なつくりなのになぜこうもからだじゅうが咽ぶ。
ちょっと整頓してみようかなあ
台所で妻が食事を作ってくれました
台所は三十五度もあるらしい
がんばってがんばって食べないとな
お会いしたこともないご夫婦を、そこに、たしかな存在として確認して、胸が哭く。
セーフかアウトか

ところで、小食で、食べるのがつらいのに、それを無理して口に入れるのはアウトじゃないのか。
アウトな場合もあろう。
でも、「妻」は、食べてもらわないと、と思ったのだ。
食べないでいては、<わたし>に、ありていに言えば、健康を維持できないのである。
つまりセーフだ。
むしろ「妻」の、「三十五度の厨」の方が、アウトなんじゃないのか。
結果的にはセーフだったかも知れないが。
おふたりの、このぎりっぎりのせめぎあいにからだが咽ぶ。胸が哭く。
<わたし>が「がんばつて食」ったのは、このアウトとセーフのきわどさである。
かえって不健全だろうに
ぎりっぎりだが健全らしい
このような暮らしにあれば、「妻」も<わたし>も、いのちは、露のように脆そうにも映る。
それを、それゆえか、珠とも覚しき観念が獲得できるのである。
つくづくこの国の短歌は豊穣である。