
自販機ボタンをでたらめに
わくわくのこころとなりて目を閉じて自販機ボタンをでたらめに押す(武富純一)
ながらみ書房『短歌往来』
2026年4月号
「テーブルヤシ」より
わかる。そうしてしまうことがあることを。
なぜ「わくわく」になったのか、そこまでの背景はわからない。
ちょっと困っていたことがあったのに、ついにそれが解決したとか。また、何かいいことを思いついて楽しくなって落ち着きを失ったことに敢えて身を任せているとか。
「目を閉じ」るまでしている。
これが魅力を増す。作者の武富純一さんのありように。
「自販機をでたらめに」自体は、さして人間に目新しいことでもない。
でも、作者は、自販機から出た飲料缶、もしくは飲料ペットボトルの、何が出てきてもそれを飲むわけである。これと決めた一択でないものを。
この歌には、圧倒的な幸福のオーラが漂っている。
ということについて以下
日常の制約からの解放
現代社会は、人に、常に、正しい選択を求める。
自販機一つでも、カロリーや価格、天候、今の気分、それらを総合判断して、最適解を選ぼうとするものだ。
人はいつしか、何だっていいじゃないか、でボタンを押せなくなったのだ。
作者は、そうした選択の責任を、ここで、全て自販機に丸投げしてしまった。あたかもご自分の運命を、何から何まで自販機に委ねたのだ。
あまりの幸福に子どもに還る
読み返す。
わくわくのこころとなりて目を閉じて自販機ボタンをでたらめに押す

自販機という現代社会の多くの人に多くの選択肢を用意しているマシーンを、作者は、「目を閉じて」一瞬でガチャガチャに変えてしまった。
幼少期、意味のないことに「わくわく」したものだ。
水たまりの中にわざと入るとか。
ガードレールをカンカン叩いて歩くとか。
なんであんなことしていたのか。で、いつなぜあんな愚かなことはしなくなったのか。
作者の武富純一さんは、最適解をしなければならない大人として、その理性を、思い切りよく手放して、幼少期の無意味な行為を再現している。
目を閉じる/あふれる幸福感の儀式
実際のところなどもちろん知らない。
が、作者の武富純一さんは、ここで、あまりに幸せに満ち足りていたのは確かだったのではないか。
世界から与えられるものは、今であれば、何でも美味しく飲めてしまいそうだ、と。
苦手な飲み物が出たらもったいない、なんて思考はここでは存在しないのだ。
目を閉じてでたらめに押せるのは、今の作者に、ハズレがないからだ。
そうではないか。
無敵の世界における根拠なき自己肯定感。
感動的な幸福のオーラが漂っている。
目を閉じて、自販機のボタンを押す行為に、人目が気になる心理など働いてもいまい。目を閉じたのは、大人の理性を遮断する儀式だったのかも知れない。


