
目 次
<わたし>が無力である哀切
花売るはさびしかるらしふるさとの花売る女(ひと)は頬かむりする(高松秀明)
角川書店
『五十鈴響(いすずなり)』
(道の駅 2)より
「花売る」とは、春をひさぐの符牒であろう。
可憐な乙女がほんとうに花を売っている、と考えられなくもないが。
いやいや、そんなことぁまずないな。
この歌に、わたくし式守は、迫力を覚えた。
過去、若かりし頃か、<わたし>は、見かけたのである。
「花売る女(ひと)は頬かむり」していたのを。
詩が生まれた鼓動が伝わる
「花売る」倫理上の詮議に詩はない。
「花売る」に至る物語も同じである。
「花売る」ことに不羈奔放を装うことがある。
内実もその通りなのか、テレビの報道番組に取材されて、
アタシガ~、ウリヲシタッテ~、
メーワクカケテナイジャ~ン。
何が得られるんだ、こんな取材で。
名状できない血が胸に鼓動した。
すなわち詩が生まれた。

花売り娘が朝焼けのなか
<草稿>あいみょんに会えることだけ考えて花売り娘が朝焼けのなか
唐突に
短歌のおけいこをはじめます
平成であれば浜崎あゆみ、令和であればあいみょんのコンサートに行く予定があること一つで無理を生きているのである。
ということ(ほんとうです)を、わたくし式守は、歌にしてみたかった。
「頬かむり」型の花売り娘は、「メーワクカケテナイジャ~ン」型の花売り娘と違って、理性が偏頗ではない。内省的なのである。
要は花売り娘が安っぽい
お手本を読み直す。
花売るはさびしかるらしふるさとの花売る女(ひと)は頬かむりする
わたくし式守の<草稿>とのひらきに呆然となる。
<草稿>では、よしこれが実話だとしても、安っぽいミニ動画に堕ちている。
短歌のこころ
「頬かむり」せざるを得ないことに、花売り娘は、自身がいかに汚れているか、この人生を呪っている。
わたくし式守は、花売り娘の、これ以上は汚れたくないこころを、ささやかな結晶にしたかった。
されど、これを救済する力などないわたくし式守が、ここで、せめてあいみょんのチケットを用意してあげることに何の意味があろうか。
犬や猫の泣きまねを聞かせてあげる方がまだよい。
<草稿の手直し>おかえりにゃさいホニャラホニャララ
おけいこはつづいています
とか。
とってつけたようなあいみょんよりはまだいいだろう。
あ、いや、いくらなんでも「にゃ」ではよくないが、「あいみょん」を持ち出して虚飾するよりまだましである、という意味で。
「頬かむり」していることをただ「さびしかるらし」とできる、高松英明の短歌のこころは、要は、そういうことなんじゃないだろうか。