田口綾子「熱々のうちに」短歌をテコに人間の表を裏にめくる

この歌人の短歌をもっと読みたくなる短歌

見慣れぬ色の見知らぬ路線図ひろげつつ旅行へいかうとはしやぎゐるひと(田口綾子)

本阿弥書店『歌壇』
2017年7月号
「ごはん!」より

この連作「ごはん!」は、歌集『かざぐるま』(短歌研究社)に収録されています

<わたし>は、「はしや」いでいない。
「はしや」いでいるのは、「ひと」だんなさんだけなのである。

<わたし>はまだ、行く、とも言っていないのにこれである。

<わたし>は、落ち着いて相手になっている。
<わたし>には、ふだんからこのような準備が、できておいでなのか。

<わたし>も、「ひと」も、おもしろい。

田口綾子「熱々のうちに」短歌をテコに人間の表を裏にめくる

文学がおもしろくなるのは、そこにある人が、おもしろそうだからである。

妥協の先に

田口綾子「熱々のうちに」短歌をテコに人間の表を裏にめくる

プランA・B提示せられて連休は出かけじと思ふわれは負けたり(田口綾子)

窓際の席を陣取る 夫婦旅行をしたがる君の「婦」としてわれは(同)

「夫婦旅行」は、<わたし>に、そう言ってよければ、不本意な妥協に過ぎなかったのである。

しかし、事ここに始まれば、<わたし>は、「窓際の席を陣取る」能動性がある。

「窓際の席」にすわるのは、<わたし>に、当然のことらしい。
むしろそれは義務とでも言いたげな調子も何だかおかしい。

夫婦の「婦」だから、と。

これを結句に置いたことで、わたしには、都合によって「婦」になる居直りのようなもの、そして、それを自覚していることが見えて、ただこの時ばかりでない、もっといつもの、ふだんの、ご自分の、ご夫婦のありさまがうかがえる。

たのしそうだ。

この透明で爽快な場面は、自分もここに身を置いてみたい、とならないだろうか。

どうぞお好きに
なさいませ
<わたし>に
そう言いたくなる

二人で一組/夫婦も短歌も

田口綾子「熱々のうちに」短歌をテコに人間の表を裏にめくる

「おいしいものしりとりしよう」と誘ひたるに「ごはん!」と即答されて終はりぬ(田口綾子)

しりとりに勝つ/負くといふ経験を旅先にゐてわけあふわれら(同)

「おいしいものしりとり」なるものからしてすでに何だかおかしいのであるのが、<わたし>は、かんたんに勝ってしまった。

っつうか、ありようは、夫がかんたんに負けた。

勝負にならない。
「ごはん!」て、あなた。

この連作「ごはん!」は、それぞれ一首で読んでもおもしろいのであるが、二首一組で読むのもまたおもしろい

夫婦が二人で一組なように

不本意な妥協から始まった「夫婦旅行」が、と同時に、この連作もまた、であるが、単純な一対の枠におさまった。

この枠は、ここではこうというご夫婦の時間がありのままに流れていて、その自然なありさまは、読む者(わたくし式守)に、愉悦を生み出した。

しかし……、
行動の一致は、
なべて約束されたもの
ではないらしい……

田口綾子の技

田口綾子「熱々のうちに」短歌をテコに人間の表を裏にめくる

豚汁が最もおいしく写るやうに絞りを調整してゐる君は(田口綾子)

豚汁が最もおいしくあるために熱々のうちに頂くわれは(同)

「豚汁」を前にして、夫婦は、行動が一致していない。

一致していないことで、この一組の夫婦を、あるいは、この一組の短歌を、その生態を、しみじみと見つめさせる。

豚汁を前に、ご夫婦おふたりそれぞれ無邪気であるが、この無邪気に、お互いに無批判なのである。
尊重か。
無視か。

夫婦の、あるいは、短歌の対称性は、相互に弾力を持っている。

田口綾子の、この卓犖とした技は、終盤の「藤」を軸に、ますます冴えを見せる。

藤の花

田口綾子「熱々のうちに」短歌をテコに人間の表を裏にめくる

豚汁が最もおいしくあるために熱々のうちに頂くわれは(田口綾子)

君の向けくるカメラを避けて藤の花に垂るる時間の長さを思ふ(同)


「……われは」は、結句に「われは」を連続して置いた、正岡子規の連作「われは」を意識してのものである。

また、正岡子規の連作には、「藤の花」もある。

ことに膾炙している一首は、

瓶(かめ)にさす藤の花ぶさみじかければたゝみの上にとどかざりけり(正岡子規)


君の向けくるカメラを避けて藤の花に垂るる時間の長さを思ふ(田口綾子)

カメラ持つ腕を伸ばして藤の花に垂るる時間の短さを言ふ(同)

ここで、<わたし>は、カメラを手に「君」に向けることなどしていない。

若い恋人たちが、足休めに、「藤の花」の「時間」によりかかるような時代は、ふたりにはもう過去の話である。

「藤の花に垂るる時間」をテコに、ここまで読んだ、単純な枠の印象が、ひっくり返された。

短歌のオセロ

田口綾子「熱々のうちに」短歌をテコに人間の表を裏にめくる

藤を見ても子規のことなど言はぬひとと旅先にゐて藤を見てをり(田口綾子)

「しりとり」の「経験を旅先にゐてわけあふ」夫婦相は、この一首によって、完全に変貌した。

夫婦の明色のカードは、その時々で、暗色の裏面を見せる

短歌をテコに人間の表を裏にめくる

が、めくられたからとて、陰湿なものになっていないのはなぜ。

「おいしいものしりとり」を提案する魅力。
「ごはん!」と即答してしまう魅力。

これはこれで、偽装ではないからだろう。

されど、

「藤の花に垂るる時間」は、その長短、それぞれに感触が異なるが、その美しさにはどうか。

夫と妻に差はあるのか。
写真と短歌に差はあるのか。

リンク