
目 次
沈黙の中に切ない短歌の声がある
君の家のいちばん近くの紫陽花が赤色か青色か聞きたい(立花開)
KADOKAWA『短歌』
2015.9月号
「遠鳴り」より

きみのことでは知りたいことがたくさんあるんだけど、その一つは、「紫陽花が赤色か青色か」かなあ、と。
沈黙の中にただその一つを。
なぜ?
おもしろければそれでいいとはいかない
「遠鳴り」は、十首連作である。
こうもおもしろい短歌をずんずん読ませてもらえば、おもしろければそれでいいとしたくもなるが、次に引く三首で、「紫陽花が赤色か青色か」のおもしろいな性がなぜ高くなるのか考察してみたい。
君の土地で生れた水を君は飲む身体の中は誰もが一人(立花開)
君の家のいちばん近くの紫陽花が赤色か青色か聞きたい(同)
車窓から眺める時間が溜まりゆく器となりぬ君の街まで(同)
お互いが相見ざること十年は経過しているかの悔悟と寂寥の印象を持つ。
身体の中は誰もが一人

君の土地で生れた水を君は飲む身体の中は誰もが一人(立花開)
人に恋をすると、相手は、その実態がいかなるものであっても、当人にとっては本尊だ。
誰もがそうだと思う。
まことに平凡な恋愛観とも思う。
が、人は、この世界で、女性を(男性を)愛すると、その人と一体になりたいとなるではないか。
それが叶えばもう死んでもいいとさえ。
なのに
「身体の中は誰もが一人」と思うしかないのである。
切ない
そう
身体の中は誰もが一人なのである。
「君の土地」の
「君の身体」よ
会いたや
声なき声の潮が胸に飛沫をたてているようだ。
されど
胸三寸に畳むことしか<わたし>にはできない。
この一首は、わたくし式守に、恋しき瀬々の、悔悟や寂寥に縁どられている痛恨の短歌としてしかもう読めなくなった。
時間が溜まりゆく器

車窓から眺める時間が溜まりゆく器となりぬ君の街まで(立花開)
「君の街まで」なんだそうな。
二人の街ではないわけだ。
されば、「身体の中は誰もが一人」なように、「時間が溜まりゆく器」もまた、<わたし>だけ個人のものに過ぎないのかも知れない。
「君の街まで」がまこと哀切である
人に恋をすると、相手に、自分と同じだけ火が燃えていることを夢見る。
会えば互いにその火と火を見せ合えることを。どんなに生きていてよかったとなれるかを。
ところが、人との恋は、そうそううまく事が運ばないのである。
<わたし>の「器」には、これ以上なく燃え盛る火がある。
器に時間が溜まる。
しかし、それは、ともに持ち合う「器」ではない。
小さくない挫折があるのである
紫陽花が赤色か青色か

君の家のいちばん近くの紫陽花が赤色か青色か聞きたい(立花開)
<わたし>は、内にある「器」の、そこにある火を慰撫するしかなくなる。
外面を保てない。
「器」はどうなる。
<わたし>だけ個人の「器」のままか。
<わたし>の恋は、「紫陽花が赤色か青色か」がわかるだけで足る恋に着地するのである。
恋の結末を左右する

紫陽花とて小汚いものもあろうに、この短歌の「紫陽花」は、美しい以外の前提はない。
読み直す。
これで最後だ。
君の家のいちばん近くの紫陽花が赤色か青色か聞きたい(立花開)
<わたし>は、「君の家のいちばん近く」にいられない。
「君の家のいちばん近く」の「紫陽花」にさえなれないのである。
ほんとうに何色なんだろう
しかし
「君の家のいちばん近く」の「紫陽花」にはなれない。
「紫陽花が赤色か青色か」を知りたいがせいぜいであることで、<わたし>は、かろうじて青春期特有の疾風怒濤をくぐりぬけるのである。
恋愛は、時に、つまらないエピローグを持つことがあるが、この短歌は、沈黙の中に劇的でさえある。