
目 次
カプチーノの泡

なんぼ下品といわわれてもカプチーノの泡を嘗め尽くさずにはいられない(白瀧まゆみ)
本阿弥書店『歌壇』
2016.8月号
「いられない」より
と、詠んで、<わたし>は、ほんとうに「カプチーノの泡を嘗め尽く」しているに違いない。
それも今その最中であろうか。
ただならぬ決意にも読める。
問題はもう「カプチーノの泡を嘗め尽く」すことにとどまっていないのではないか。
こだわり程度ではないわけだ。もはや人生の根幹の問題。
これをしないと自分が自分でなくなる、というような。
わたしはカフェでこんなまねはしないし、また、したいとも思っていないが、なぜか敗北感を持った。
敗北感?
敗北感
この式守なんぞよりはるかにたしかな時間を生きているではないか。
このわたしがたしかに生きている時間は、この一首の<わたし>よりも、確実に一つ少ないのである。
詠み方次第/なんぼ下品といわれても
なんぼ下品といわわれてもカプチーノの泡を嘗め尽くさずにはいられない(白瀧まゆみ)
なんぼ下品といわれても~
初句・2句のここ。
ここ~。
世間には人の目があることをもちろん知らないわけがない。
世間の目は、これを、下品と見るだろう。が、そんなの知るか、と。
この“そんなの知るか”によって、あたしゃ○○しちゃうよ、との短歌内のみなぎるおもいを、みなぎるおもいのまま完成に導いた。
となると死さえもこう詠める
<わたし>のお父さまがお亡くなりになったようだ。
次の一首は、この連作「いられない」にある。
あまりにも話せぬことが多すぎて父が生きてたことを疑う(白瀧まゆみ)
人が死ぬと(しかもここではお父さまの死である)、その死の角度を、人は、なかなかとれなくなる。
現実感などあるわけがない。
という歌は、例を挙げようと思えば、それこそ戸惑うほど枚挙にいとまがない。
いずれも魅力的な歌であるが、そのような短歌として読んでみた時に、この一首は、出色の短歌ではないかと。
と、わたしは読んだ。
1 そもそも生きていなかった可能性を見た
2 話せぬことが多すぎるそうな
“話せぬことが多すぎる”との2句目によって、生きていなかった可能性さえ覚えた混乱は、混乱のまま完成まで導かれた。
その死に冷静になると
次の一首は、父の死を少しは理解できてきたあたりか。

母と娘(こ)が善なる父をバーチャルな空間に封じたミステリイかも(白瀧まゆみ)
父の実体はもうない。それはもうどうにもならない。
父はもうこの世にいないのである。
でも、
この世って何よ。
何?
パラレルワールドなんてものもあろう。
異次元世界なんてものもある。
また、ネット空間が、現在はある。
もしもそこに封じたのであれば、それはもう、たしかにミステリイ。
1 母と娘(こ)が、と措辞
2 封じた、との措辞も
ミステリイを、現実世界に非現実的な出来事が起きることとして、それが可能なのであれば、せめてそこに封じてしまえないか。
わたしにはある、そのような願い。せめてそこにいてくれとの祈り。
愛した人に愛された人はそうそうすぐに白玉楼中の人になれない。
特別な能力など要らない。
父の妻と娘がそうしようとさえすれば。愛していたのであれば。
要は生き方だ
この一首を読み返すこと、これで最後だ。
なんぼ下品といわわれてもカプチーノの泡を嘗め尽くさずにはいられない(白瀧まゆみ)
カプチーノの泡をただ嘗めるだけでは歌にならないのである。
そこに生き方が見え隠れして初めてカプチーノの泡を嘗める姿は輝きを放つ。
白瀧まゆみは、現実世界のご自分を、このように歌作して、かつ非現実世界への回路を見せる。
愛する父はやがてどうなられようか。
<わたし>のこの生き方とこの歌作姿勢をおもえば、実体はどこにおわそうが、永遠のお人になられたかと。
何を詠むかよりそれをいかに詠むかのたいせつさを痛切におもう