
目 次
不吉
片側に砂利は積まれて雨の降る道を不吉に歩みてをりぬ(柴生田稔)
短歌新聞社
柴生田稔『南の魚』
「入野」抄
(砂上の胡桃)より
<柴生田は(しぼうた)
と読みます>

その積まれたとやらの砂利があまりに異形だった、なんて類の歌ではあるまい。
また、積まれた砂利がいまにも崩れそうでこの身が飲み込まれてしまいそうだ、なんてことを詠んでもいない筈である。
しかし、<わたし>は、ここを歩くに、不吉を覚えないではいられなかったようで。
不吉
歩みてをりぬ
読み返す。
片側に砂利は積まれて雨の降る道を不吉に歩みてをりぬ(柴生田稔)
好きなんだよな
こんな歌って
不吉な道を歩いていたわけであるが、なに、結局、何も起っちゃいないのである。
ほんとうにそうか
砂利に埋まってしまうかどうかは措いておいて、ほんとうは、何か忌まわしいことがあってもおかしくない時空だったんじゃないのか。
たまたま無事だった。
されば
この一首の措辞の、わたしに、憧れの花が咲くのは、「歩みてをりぬ」、この結句に尽きる。
何も起きていないのに、何だか不吉、それだけで人はいちいち引き返していられない
人の道を歩いた。
人の道を
列の外を生きない
列につきて行く常識にわれひとり背きて済むと思ふにあらず(柴生田稔)
「同」抄
(常識)より

列外を生きる人がいる。そう生きたがる人がいる。
孤高に生きる。そのくらいの気概で生きよ、
とか、
逆に、
そんなのだめだ、
とか、
柴生田稔は、そんな(時にうすっぺらい)人生訓は説いていないのである。
あくまで、<わたし>は、「常識」に準じてはいる。
しかし、世間の通念に屈服してそうしてはいない。
この一首の結句は、人生の、その絶妙な加減が、しみじみ伝わる
されば
わたしは、この一首の措辞に憧れの花が咲くのは、「思ふにあらず」、この結句に尽きる。
読み返してみたい。
列につきて行く常識にわれひとり背きて済むと思ふにあらず(柴生田稔)
かっこいい
柴生田稔

何もかも受け身なりしと思ふとき机のまへに立ちあがりたり(柴生田稔)
「寒山」抄
(春寒 昭和七年)より
「歩みてをりぬ」も「思ふにあらず」も、現代の若い歌人は、その人生を、短歌に、こうも直截に貼り付けないのではないか。
現代の若い歌人がそうしていないことで、わたしに危惧はないが、だからと言って、現代短歌の作法を全的に認めてもいない。
しかし
これはいかにも唐突であるが、未来のために、人生を、理想をつくりだすために意慾する文学(ここでは短歌の)宿命を、柴生田稔の、この一首が背負っている印象は、わたしに頗る鮮である。
ということは、ここに書き残しておきたい。
(前略)
坂口安吾
いはゆる自然派といふヨーロッパ近代文学思想の移入(あやまれる)以来、日本文学はわが人生をふりかへつて、過去の生活をいつはりなく紙上に再現することを文学と信じ、未来のために、人生を、理想を、つくりだすために意慾する文学の正しい宿命を忘れた
(後略)
『理想の女』より
「自然派」が近代短歌の「私性」と整合するものではなく、また、「未来のために、人生を、理想を、つくりだす」ことが、果たしてまことに「正しい宿命」なのかどうか、ということはもっと掘り下げたいところではあるが
で……
柴生田稔が、「歩みてをりぬ」も「思ふにあらず」も、また「立ち上がりたり」も、短歌の結句として、わたしに、この人生の先を導く強さは確かにあった。