関谷啓子「木の花の匂うころ」どこまでも無垢でいられること

こんなにきれい

葉桜がこんなにきれい 誘いたる母が来るまでベンチに待てり(関谷啓子)

本阿弥書店『歌壇』
2017.8月号
「木の花の匂うころ」より

関谷啓子「木の花の匂うころ」どこまでも無垢でいられること

葉桜は
こんなに
きれい

このように美しく娘は母を待った。
清澄な光景だ。
母と娘、女性二代に、この世の悪意は存在していない。

「こんなにきれい」な葉桜と「こんなにきれい」との言葉は、ここに、詩画交響として結実した。

山が知るのみ

関谷啓子「木の花の匂うころ」どこまでも無垢でいられること

朴の花高々と咲きいっぽんの木の伝説は山が知るのみ(関谷啓子)

「同」より

高々と、と。
されば朴の花の匂いも高いところにあろうか。
「木の花の匂うころ」すなわち夏が来るごとに、それは、<わたし>にとって謎だったのか。なぜ、と。

<わたし>は、答えを求めていない。
今はもうあえて答えを知ろうとしてはいないのか。「伝説」とはそういうことか。

いっぽんの
木の伝説は
山が知るのみ

この一首は、次の二首にはさまれてある。

水の音はげしくなれど源(みなもと)は何処なるあたり真みどりの中(関谷啓子)

樹の下にあまた咲きいるジャガの花みちを曲がればすでにまぼろし(同)

嬰児(みどりご)/とうふ

関谷啓子「木の花の匂うころ」どこまでも無垢でいられること

嬰児(みどりご)の子守を終えて帰りきて夕餉のとうふ手のひらに切る(関谷啓子)

「同」より

嬰児はさぞやわらかかったことだろう。
アタリマエであるが粗略にできるわけがない。
とうふもまたそうなのだ。
扱いによってはすぐに崩れてしまう。形を崩さないように手にのせるばかりなのである。
ただ、
とうふは包丁で切る。嬰児は包丁で切れないが。

わたくし式守は、この一首を、嬰児と豆腐の衝突、との読みをしたわけではない。
関谷啓子さんご本人がそのようなおつもりで詠んだものだとしても、それは同じことだ。
この一日は、関谷啓子さんなる<わたし>において、必然のありようだったように思える。

<わたし>の人生を貫くものがこの一首にある、と思えば

どこまでも無垢でいられる

読み返す。

葉桜がこんなにきれい 誘いたる母が来るまでベンチに待てり(関谷啓子)

朴の花高々と咲きいっぽんの木の伝説は山が知るのみ(同)

嬰児(みどりご)の子守を終えて帰りきて夕餉のとうふ手のひらに切る(同)

関谷啓子「木の花の匂うころ」は、12首の連作である。
ここに引かなかった歌もまたそうだった。嬰児のこころのままに無垢なものを無垢なままに掬い上げておられた。

朴の花の謎は、これを伝説として、やはり無垢なままに詠まれたものなのではないか。

「こんなにきれい」と葉桜を詠めたのは、むしろ葉桜が、<わたし>を、無垢なままにけして穢さぬことを保証しているからなのではないか。

関谷啓子「木の花の匂うころ」どこまでも無垢でいられること

リンク