
目 次
それは美しいデザイン

日記よりも出納帳は明るくて薄桃色の線の平行(澤村斉美)
第52回(2006年)
角川短歌賞
「黙秘の庭」より
わかる。
このテンプレートを、わたしは、なんて美しいデザインだ、と思ってきたし、その思いは、今もまだ、溢れるほどあるのである。
「薄桃色の線の平行」は、たしかに「明るくて」、最初にこのようにデザインした人を、わたしは、どれだけ讃えても足りることがないのであるが。
世界の大都市のネオンなどは、この「出納帳」の「薄桃色の線の平行」からすれば、色彩としては衰えてしまったものなんじゃないのか。
まずはお金

減りやすき体力とお金のまづお金身体検査のごとく記録す(澤村斉美)
あの「薄桃色の線の平行」のあるテンプレートに「お金」を「記録す」ることは、けっこうくるものなである。
脳内麻薬らしきが生成されるのか、ハイになるのである。すなわちくる。
「減りやすき」に「体力」もあれば、「体力」もまた、何かに「記録」は、望ましいことであろうが、「まづ」こっちを、とならないのは、「薄桃色の線の平行」に「お金」を「記録す」る方がくるからなのである。
人のためには使わない

人のために使ふことなしひと月を流れていきしお金を思ふ(澤村斉美)
何もご自分がいかに吝嗇であるかを認識したわけではあるまい。
まだ気前よくご馳走をふるまえる年齢層ではないのだ。
何に「使ふ」か性質別に集計しておられる
月々の残高を規則正しく月締めをしておられる
そのようにして炙り出されたものが、「人のために使ふことなし」となれば、ただの所感ではない。
レシートを疑ってしまう

夢の机に拾ふレシートなめらかな紙には嘘があるやうな夜(澤村斉美)
「夢の机に」との初句が、まこと印象強く目にとまる。
これは、中原淳一が描いた、女性がこれ一台で何でもできる、あの机のことだろうか。
夢の机
今、<わたし>の目の前は、パソコンが設置されていようか。
たとえば「出納帳」は、このパソコンで、たちまち画面に出せるのであるが、そのような表現として、初句に、「夢の机」を換骨奪胎したのだろうか。
レシート
「レシート」。これは、感熱紙で出力されたものを目に浮かべたらよかろうか。
時代はもう、パソコンPOSが標準になっていたことが、「なめらかな紙」でうかがえる。
これもまた、言ってみれば、「夢の」ものだよなあ
レシートの嘘
ここで、<わたし>は、この「レシート」に、「嘘があるやうな」、と訝っておられる。
「嘘がある」と断言はしていないが。「嘘があるやうな」とあくまで懐疑的に。
では、その「嘘」とはたとえば何だ。
それはわからない。<わたし>ご本人もわかっていないのではないか。
さしあたりレシートをただレシートとしてそのまま信じないことに、ふだんの鍛えのほどが、さりげなく認められる。
詩的表現としてもたのしいが、実務的にも、ふだんの鍛えあっての<わたし>なのだろう。
<わたし>は、組織の中で、信頼されていようことがうかがえる。
しかし
このあたりで、微笑ましく目にとめていた筈のキャンドルライトの炎に、その揺れ方がおかしいことに気づき始める
人もまた感熱紙か

感熱紙の使用期限がおとづれてうすくなるのだ数字も人も(澤村斉美)
感熱紙のレシートに印字されたものが、時の経過に伴ってうすくなってしまったのを、誰しも目にしたことがあろう。
会計や税務の証憑はこれでは具合の悪いことがあるが、感熱紙に印字されるものは、その程度の寿命で足りるものらしい。
ただ、<わたし>は、ここで、「人」も同様に「うすくなる」と。
日記よりも出納帳は明るくて薄桃色の線の平行(澤村斉美)
減りやすき体力とお金のまづお金身体検査のごとく記録す(同)
明るく、屈託のない笑顔を、「出納帳」に預けておられるが……、
感熱紙の使用期限がおとづれてうすくなるのだ数字も人も(澤村斉美)
このあたりで、陶酔とも呼びたくなる悟性が、顔を出してくる。
カレンダーの月が減りゆくのが好きでひと息に破る四月一枚(澤村斉美)
「まづお金」を「身体検査のごとく記録す」るのと同質の、いっそ爽快な心情が見通せるが、一つには、<わたし>が、ほんとうに「カレンダーの月が減りゆくのが好き」だからであるにしても、でも、ほんとうにそれだけなのだろうか。
悟性もおありだが、ここには、危うさもないか。
微笑ましく目にとめていた筈のキャンドルライトの炎の、その揺れ方は、このあたりで、ますます危うく目に映る
季節はめぐる/そうそれだけ

ただ夏が近づいてゐるだけのこと 缶コーヒーの冷を購ふ(澤村斉美)
あれ
あれ?
先のカレンダーの歌……
カレンダーの月が減りゆくのが好きでひと息に破る四月一枚(澤村斉美)
並べてみよう。
ただ夏が近づいてゐるだけのこと 缶コーヒーの冷を購ふ(澤村斉美)
時の経過に質感が異なる。
「缶コーヒーの冷を購ふ」程度のことで、時がまた過ぎてゆくに、淡い諦念を自覚する。
季節はめぐる。しかし、そうそれだけのことである、と。
お金の計算のような音がするほど規則性がある時の経過はいいが、季節の停滞は、今の<わたし>に、ほんとうは、不安のあくびの一つもしていたいところがあるのを、そうはいかない内省があるのである。
フリーターでもなく学生でもなくてわれの半人半獣の礼(澤村斉美)
現段階のご自分を、<わたし>は、このように表現した。
さればいっそ爽快に時を失おう

遠いドアひらけば真夏 沈みゆく思ひのためにする黙秘あり(澤村斉美)
と、詠むからには、「ドア」なるものを、まだ開けてはいないようである。
「ドア」を開ければ、目の前に「真夏」があるが、<わたし>は、「ひと息に破る四月一枚」とはもういかないところに身を置くことになる。
フリーターでもなく学生でもなくてわれの半人半獣の礼(澤村斉美)
むしろあえてそうなりたい、との希望を持っても、逆にそうもいかないのが、おおかたの青春期である。
それが、<わたし>に限っては、こんな青春期を送れている。
<わたし>には、組織が捨て置けないだけの、多分に高い知能がおありなようだ。
されど
連作「黙秘の庭」に、<わたし>は、まだまだ若い。それは、「人のために使」える経済力がまだないのとはまた異なる次元の若さである。
成長と反省と決意が円滑に調和していない点で、<わたし>もまた、おおかたの若者と大差がない。
それが逆に美しくないか
されどそれは美しく

今はまだ「遠くのドア」は、やがてその手で開けられよう。
そこは、はっきりと「真夏」であるが、この「真夏」なるは、今よりずっと難儀で、<わたし>に、組織が捨て置かない、いかに高い知能があろうと、「半人半獣」はもう許されない。
今が過去になって、「沈みゆく思ひのためにする黙秘」がせいぜいの時代に突入するのである。
わたしは、この連作「黙秘の庭」を、角川短歌賞の受賞作の中でも、ことによく読み返しているが、都度、わが国の短歌の連作に、青春期を扱った屈指の傑作として結実していることを疑わない。