
やっぱり歌である
人間はひしひしさみし だとしてもすべては光のなかのできごと(佐藤晶)
ながらみ書房『短歌往来』
2026年5月号
「春に逝くは」より
アフォリズムのようだ、と思った。
でもやっぱり歌だよな、と思った。
「人間はひしひしさみし」だと確かに思う。
でも、それだけじゃないと一方では思ってもいて、ありていに言えば、人間を全否定してはいないわけで、この一首は、それをそうと直截的に詠まれていないのにわかる。
いい歌だなあ
ということについて以下
圧倒的な身体性があるのだ
「にんげんは(5)ひしひしさみし(7)」
と。
意味だけでなく「音」そのものが孤独の質感を再現していないだろうか。
「ひ」と「し」の連続(摩擦音・無声音)
息を鋭く吐き出す「ひ」と「し」の音は、寒さや寂しさが身に染みる。
静まり返った空間の密室性を耳で想起させるのである。
「し」による切断
口語で「さみしい」と詠まなかった。
「さみし」と3音で言い切った(終止形)。
余韻を残さずに、逃げ場のない絶対的な孤独として、「ひしひし」と呼応させる。
結果、「さみし」は、胸の奥深くを突き刺したのである。
「だとしても」の秀逸なこと
「だとしても(5)すべてはひかりの(7)なかの(3)できごと(4)」
と。
「だがしかし」ではないのだ。
小理屈のようで気がさすが、「だがしかし」では、人間が「ひしひしさみし」に、疑いがないことになってしまう。
人一人の内側から外の世界へ
「だとしても」という接続詞は境界線ではないか。
これによって、視点は、「人一人の内面(ミクロ)」から「外の世界(マクロ)」へと一気に引き伸ばされる。
主客の反転が
人間は、自分は世界を見ている(主体である)と思っている。
しかし、この歌ではどうか、ということですよ。
人間(主体)を、光のなか(あたかも巨大なカプセル)に包んでいないか。
結果、人生の途上の一つ一つは、「できごと」という客体として描き直してくれる。
生きていれば痛切な孤独に身を置くことがある。
が、それも、実は、光の中で上演されている一場面にすぎない、と思ってみるのはどうか。
光の中なのであれば、永遠の器の中にほんの一瞬なのである。
それは、虚無感を導かない。
むしろ逆。
ぐるりと見渡せば、人は愛しく慕わしくもなる光の調和のなかに包み込まれていたのだと。
定型には魔的な力があった
僭越ながらこの一首を散文的に解体してみる。
人間は寂しいものよ/この世の本質は光
なんてあたりか。
つまんねーの。
読み返す。
人間はひしひしさみし だとしてもすべては光のなかのできごと
ほれ、
この一首は、やはり愛すべき短歌になっている。
人一人が抱える寂しさを軽視することなく、されど、それを遥かに凌駕する光のなかにそっと置いてみせているではないか。
それはつまり
定型
韻律は思考を止める
人間は、それが正しいからだけで納得はしないものだ。
短歌で言えば、その調べ(音楽性)が伴って、その真実は受け入れられる。
そうではないか。
そうしてはいないか。
結句の余白
結句は、
「なかの(3)できごと(4)」。
かくしてこの一首はまこと淡々と閉じらた。
引き算の美学がある。
言葉にされなかった広大な「光の空間」が、一読者たる筆者の脳内に、シンと拡がった。

