
目 次
不意の讃美歌
掌(てのひら)の窪みに手帖ひらくとき風がもたらす不意の讃美歌(阪森郁代)
短歌研究社『ノートルダム』
(たしか八月)より
主にプロテスタントでは「讃美歌」。カトリックでは「聖歌」と呼ばれる。
ここでは「讃美歌」。
内容が詠まれた通りそのままではないような気がして、一読して終わりにできなかった。
非常な静謐がある。それでいて五感を揺さぶられたのである。
キリスト教的な背景を補助線にすると、この「不意の讃美歌」には、神の訪れ(啓示)のニュアンスが重なって見えてきた。
受容の形としての掌
開いた掌は、「祈り」や「神の恵みを受け取る準備」の象徴である。
(マルコ3:5など)
手帖を開くために作った「掌の窪み」が、意図せずして神の恵みを受け止める器になっている。
日常の何気ない動作なのに聖なるものを受け入れる儀式に転化した瞬間である。
風= 聖霊の象徴
「風」は、目に見えない聖霊の象徴である。
(ヨハネ3:8など)
「風がもたらす」と。
それは自分の意志で作り出したものではない。天から一方的に届けられた「恩寵(ギフト)」である。自分では制御できない不意の出来事。だからこそ、そこに神性が。
一読して終わりにできなかったのは、何となくであっても、この一首の世界にそっと吹いた風は、筆者にも不意で、不意であることで神聖を心のどこかで感知したのではないか。
日常の中に現れるロゴス
「手帖」という完全に個人の言葉を記す場所を開いた瞬間に、外から「讃美歌」が飛び込んでくる。自分の内側に閉じこもろうとした瞬間に、風によって、世界(そして神)との調和に引き戻された。
個人の営みと世界の真理が接続された瞬間である。
一読して終わりにできなかったのは、この不意の風が、読者=筆者のわたくしにも、何かたいせつなものを置いてくれたのかも知れない。
「風」は、作者・阪森郁代さんの手によってではない。「讃美歌」は、自分から聴きに行ったのではない。向こうから見つけ出された。
「窪み」という空白
器に何かがたまる。空白の前提があるのだ。
この一首の、「掌の窪み」は、手帖を持つという何気ない動作で作られたものであるが、なんと無防備な空白だろう。
そうではないか。
読み返す。
掌(てのひら)の窪みに手帖ひらくとき風がもたらす不意の讃美歌

何者でもない、そう言ってよければ、空白の自分に、予期せぬ祝福が。
わかってきた。わかってきた。
一読して終わりにできない感覚の正体は、人間が、それを意図していないのに、あるいは、無防備なのに、世界(そして神)の美しい応答があることを、阪森郁代さんの短歌によって、この目で見せてもらったからだった。







