阪森郁代「実在は非在の片割れ」答えのない祈りを捧げること

読む目安: 約3分

記録=実在

実在は非在の片割れマグダラのマリアはいくつまでを生きしや(阪森郁代)

短歌研究社『ノートルダム』
(奇妙な家)より

マグダラのマリアは、聖書の中で、イエスと行動を共にした婦人たちの一人として、このように登場している。

悪霊を追い出して病気をいやしていただいた何人かの婦人たち、すなわち、七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア



  新約聖書
(ルカによる福音書
8章2節)

また、復活したイエスが最初に現れた相手として、

イエスは週の初めの日の朝早く、復活して、まずマグダラのマリアに御自身を現された。このマリアは、以前イエスに七つの悪霊を追い出していただいた婦人である。



  新約聖書
(マルコによる福音書
16章9節)

伝承=非在

読み返す。

実在は非在の片割れマグダラのマリアはいくつまでを生きしや

マグダラのマリアが何歳まで生きたか。聖書は、彼女の晩年については沈黙している。

フランス(南仏)の伝承によれば、イエスの復活後に、迫害を逃れて南フランスへ渡ったらしい。72歳で亡くなったという具体的な説がある。が、史実として確認できる記録はないのである。

「実在」と「非在」のゆらぎ

マグダラのマリアの没年が定かではない史実を踏まえると、この歌の持つ問いは、筆者の人生に鋭く響く。

歴史上の人物を実在として捉えることに齟齬はない。しかし、その晩年や最期については非在ばかりなことがままある。
この一首は、実在した女性という光がある一方で、記録に残らなかった膨大な非在と背中合わせである。

実在と非在の二つが揃って一人の女性が「マグダラのマリア」として形成されてはいない冷徹で鋭い洞察がこの一首に読めた。

「いくつまで」という問いの切実さ

下句で、「いくつまでを生きしや」と年齢が問われた。「マグダラのマリア」を崇高な聖女の記号としてではなく、ご自分と同じように時を刻み、そしていつしか同じように老いてしまう女性としてご自分に引き寄せている視線が感じられる。

50歳? あるいは、南仏の伝承に従えば72歳?

その具体的な数字を問えば、彼女は、イエスの死後、どれだけの時を孤独と沈黙の中に身を委ねていたのか。あるいは、耐え抜いていたのか。

作者・阪森郁代さんが史上の人生に誠実であられることに、筆者(式守)は、背筋がしゃんとなる。

答えがないことへの祈り

読み返す。

実在は非在の片割れマグダラのマリアはいくつまでを生きしや

阪森郁代「実在は非在の片割れ」答えのない祈りを捧げること

「いくつまで生きしや」と。
この下句の問い。正解などない。

作者・阪森郁代さんは、その正解がない非在を抱えて、それでも彼女が生きた時間を誠実な姿勢で思索なさる。
記録に残らなかった長い年月、すなわち非在によって、マグダラのマリアは、ただの弟子から伝説の聖女へと変貌した。

その計り知れない時間の厚みを「いくつまで」という短い言葉に凝縮させて、阪森郁代さんは、歌人として、答えのない祈りを捧げておられるのではないか。

原始キリスト教会の時代だけではない。史上の有名人だけではない。
歴史の空白を「非在の片割れ」と表現すること。そこに、解明できない謎をそのままに聖女を愛でられる崇高な信仰があった。

なんと静謐で知的な一首。

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