阪森郁代「あいまいに時を過ごした」それがわが半生だったら

誰にでもあるあいまいな時間

あいまいに時を過ごしたその理由(わけ)をまたあいまいに考へてゐる(阪森郁代)

角川書店『ナイルブルー』
(木星の小火)より

阪森郁代「あいまいに時を過ごした」そんな半生だったとして

自堕落な日々を過ごしてしまいました、なんて歌ではないだろう。
惰性に任せて無意味な時間を過ごしてしまいました、といった心情に近いかと。

誰にでもある

っつーか、そんな時間を、愚かとしか考えられない人とは何も語り合えない。

なんでだろう

と自問をするも、<わたし>は、その自問にも、あいまいにしか考えられないのであった。

この一首を、わたくし式守は、一読してそれでおしまいにできなかった。

なぜ?

ついてはこの人生を見直してしまう

あいまいに時を過ごしたその理由(わけ)をまたあいまいに考へてゐる(阪森郁代)

阪森郁代「あいまいに時を過ごした」そんな半生だったとして

そんな答えなど出ようわけがない。

なぜなら「あいまいに時を過ごした」ことに特別な理由などなかったからだ。「理由(わけ)」など出てくるわけがない。

そして

この人生になんと無意味な時間だったことか、と。
今後の人生に何の役にも立たない時間だったなあ、と。

つまり

考え出すと、事は、人生レベルに発展してしまう。

人生?

小一時間や半日の単位ではない

わたくし式守、わたくしの身を置くところで、まじめにかけては聞こえた者であるが、ちょっとメンタル的なダメージがあると、それはもうぐうたらぐうたらと過ごす。

阪森郁代「あいまいに時を過ごした」そんな半生だったとして

それも、ぐうたらぐうたらしていたら夜になってしまった、なんて程度じゃない。

若かった筈が50を過ぎてしまうではないか、
そのようなスパンのぐうたらぶりでここまできてしまったのである。

あいまいに時を過ごしたその理由(わけ)をまたあいまいに考へてゐる(阪森郁代)

「あいまいに時を過ごした」、それは、なぜあいまいだったかそもそもが不可解な、わが半生と符合する。

怖い

不可解

以下、補足として

この角川書店『ナイルブルー』中の連作「木星の小火」に、作者(著者)・阪森郁代は、以下の短歌も選んでいる。

近づきてまた遠ざかる影ありて人の象(かたち)なりし不可解(阪森郁代)

風景を抜け出してきたわたくしの輪郭あまりにも細すぎる(同)

人の存在、その実体とは、まことに不可解である。
そして、自己像は、自身本来のフォルムと異なる。

そして

何もない場所に来たれば青空のひびのひとつにすぎぬ私(阪森郁代)

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