
目 次
「轟音」と「はかなごと」

轟音に列車は過ぎてその後にはかなごとなど言ひ出す人も(阪森郁代)
本阿弥書店『歌壇』
2017.4月号
「夜のさざなみ」より
なぜ「その後に」なのか。
「轟音」があっては話が聞こえまいと、話が、いったん中断されたからである。でも、その話は、たかだか「はかなごと」なのであるが。
(そこで初めて始まった会話かも知れないが)
「轟音」と「はかなごと」に、価値の差はない。
「轟音」を優先して耳に収めたのは、「轟音」に、より価値があるからではない。「轟音」などどうせすぐに過ぎ去る。
まあ会話のマナーもあろうが、ありていに言えば、それはうるさいからで、「その後に」会話を再開すればいいだけのこと。
「はかなごと」などその程度なのである。
轟音とはかなごとの価値の差
たかだか「はかなごと」である、と。
されば、聞き取りにくくはあろうが、大声で、「はかなごと」を「言ひ出」したっていいではないか。中断することもなかろう、とはいかない。
余計なエネルギーを費やすだけだからである。
「はかなごと」ごときに、人は、そこまでしないのである。
それは人の通念
人の話の、そのほとんどは、「はかなごと」である。
互いに信頼を置いている人であれば、祝い事や健康や家計の話をすることもあろうが、だとすれば、「轟音」が想定される場所は選ばれまい。
人の通念として

「轟音」とは何
まこと何
保留される青林檎

手に取ればあやしき色の青林檎ともかく出かけてゆかねばならず(阪森郁代)
「同」より
「ともかく出かけてゆ」くことは、人生の一大事があってか、ただただ日常の一コマとして、ああ「出かけてゆく」時間だ、ということか。
これは後者かと。一首の切迫感からすると。
「青林檎」に人生レベルの「あやしき色」があった。「青林檎」には、<わたし>の、生活レベルの時間が失われる力まであった。が、「青林檎」は、いったん保留されたのである。
生活は人生に優先された。
「ともかく」とある。この「ともかく」が秀逸である。
「出かけてゆ」く先はどんな未来が。
縁起でもないことを言えば、事故に遭うかも知れない。あるいはまた、どなたかとめでたい出会いがあるかも知れない。
が、何にしたって、これは、人生レベルの外出ではなかろう。何も起こることはないかと。すなわちどこまでも日常。
そう思うのが人の常である。
人の通念として

「青林檎」とは何
まこと何
そして「地蔵の祠」

こんどは「地蔵の祠」である。
このあたり意外な人に出会へそう地蔵の祠(ほこら)を右へ折れたり(阪森郁代)
「同」より
この「地蔵の祠」は、「轟音」と「青林檎」とは、質が異なる存在だ。
<わたし>に能動性を呼んでいる。
「意外な人に出会へそう」だと。
「地蔵の祠」によって、人の持つ通念は、ただの日常に拮抗したのである。
では、「青林檎」を「手に取」ったのは、さて、この「地蔵の祠」に来る前のことだったのか
地蔵の祠と青林檎
並べてみる。
手に取ればあやしき色の青林檎ともかく出かけてゆかねばならず(阪森郁代)
このあたり意外な人に出会へそう地蔵の祠(ほこら)を右へ折れたり(同)
連作の、並んである順に読めば、であるが、何事もなかろう外出だったが、外を歩いていると、たのしみが誕生した、と読めないことはない。
されば……、
「青林檎」は時と場所を変えて「地蔵の祠」になった、と考えてみてはダメか
元々は「青林檎」が、<わたし>の前に、かく出現したのである、と
深読みに過ぎるか。
ただ……、
人生の歩行にたしかな姿勢があれば、このような心的体験が、人に、可能になる。それだけは確かなのではないか。
流動体のやさしさ

いくつかの余談ののちに寄せてくる流動体のやさしさがある(阪森郁代)
角川書店『ナイルブルー』
(流動体)より
「余談」が「いくつか」あった、と。
「余談」など、人生の、やはり「はかなごと」であろうか。「轟音」が不可避の場所でも選択される程度のシロモノである。
が、<わたし>は、生活の歩行に、一つの姿勢がある女性である。
「はかなごと」が、ここに、「はかなごと」ではなくなった。「やさしさ」になった。
その「やさしさ」たるや「寄せてくる」ものだそうな
それは「流動体のやさしさ」であると
このような修辞が容易にすとんと胃の腑に落ちるのはいったいなぜなんだろう。

わたくし式守がおりおり阪森郁代の短歌を読み返すことになるのはこのなぜがたのしいからもあるのである