
目 次
ただの日常に能動的である短歌
デザインを見比べてをりこの服はたとへば墓所へ行くときに着る(阪森郁代)
KADOKAWA『短歌』
2016.2月号
「届かぬ位置に」より
その一首が、日常の断面に過ぎないのに、日常が軸に見えないことがある。
<わたし>に、「デザイン」は、カテゴライズされているものらしい。
カテゴライズされたなかに、「たとへば墓所へ行くとき」のものがあるのもおもしろいが、これを敷衍すれば、<わたし>のカテゴライズとは相当に細分化されていることがおもしろい。
ただの日常である。
が、その「ただ」に妙に能動的なのである。
もちろんそこに魅力を覚えられるものとして、であるが。
阪森郁代のこの連作「届かぬ位置に」は、わたくし式守に、数ある連作のなかでもことに愛している連作である
歩みは一つ

阪森郁代の「届かぬ位置に」は、「たとへば墓所に」の一首に、次の3首が続く。
登りきつたところに何があるにせよ蠟梅の散り急ぐゆふぐれ(阪森郁代)
触れしことあらぬレールの鋼鉄の冷たさ 誤報の雨に降られて(同)
静けさを啄(つひ)ばむのみの秒針は冬の日差しの届かぬ位置に(同)
花は散るすがたこそ美しい。
想定外の天候に、レールの、それもその冷たさをおもうことがある。
曠野に行き暮れて如何せんと辺りをうかがえば、はるかかなたであるが、冬の日差しが。
運命に従順でないのである
牽強付会でないこと

触れしことあらぬレールの鋼鉄の冷たさ 誤報の雨に降られて (阪森郁代)
「雨に降られ」ることなど人生にすこしも珍しいことではない。
たとえ「誤報」でも。
しかし、「誤報」一語で、「レールの鋼鉄の冷たさ」と親和するとなると、珍しい話ではない。
この因果関係は、散文では、どこをどうにも説明がつかない。
しかし、短歌なる韻文では、生きている世界と生きている人間との親和としてどこにも不思議を探せない。
散文では強弁になってしまうのだ。
なるほど、ただ「雨」ではなくて「誤報の雨」とすれば、日常に身を置いていて、この身がふっと、日常から解放されるらしい。
万里一空であること

静けさを啄(つひ)ばむのみの秒針は冬の日差しの届かぬ位置に(阪森郁代)
時間(「秒針」)は、たしかに「冬」をもたらした。
<わたし>が身を置く「静けさ」のなかに時間がある。
その日差しがここにない不条理に息をのむ。
日差しを遠くになお「啄(つひ)ばむのみ」である。
ほがらかな灯影を希望とみるか絶望とみるか。
時を生きていること

阪森郁代の「届かぬ位置に」において、<わたし>に、能動性が満たされていることの白眉として、わたくし式守は、次の一首を置く。
登りきつたところに何があるにせよ蠟梅の散り急ぐゆふぐれ(阪森郁代)
たとえばここは坂道か。
曲がればそこは坂道か。
あるいは「蠟梅」がのびゆくさまのことか。
わからない。
わからないが、この一首は、春秋の移り変わりがある。
「散り急ぐゆふぐれ」によって、時を生きるに、それを望むと望まぬいずれであっても、縷々と勢いが加わる。
「散り急ぐゆふぐれ」の風は、「蠟梅」の根強さの前に、何者でもないのか。
阪森郁代
短歌を始めてますます短歌がおもしろくなって、花の散るに時すくなきも日に悠なる阪森郁代の存在を知った。
<わたし>は
「誤報の雨」のなかを
「静けさを啄(つひ)ばむのみ」のなかを
「蠟梅の散り急ぐゆふぐれ」のなかを
「登りきつたところに何があるにせよ」と
世界を眺める
「登りきつたところ」ここもまた「届かぬ位置」であるが、<わたし>は、はるかなる歩みを止めることはない。
たとえいまを悲命としてもこの道あるはありがたきを、阪森郁代の人間の真実に、わたくし式守は、説得されるのである。
