佐伯裕子「純粋な手紙などなき」現代の世に平然とした情志

純粋な手紙

純粋な手紙などなき郵便の束を配るよ赤いバイクが(佐伯裕子)

本阿弥書店『歌壇』
2017.11月号
「可笑しな引力」より

佐伯裕子「純粋な手紙などなき」現代の世に平然とした情志が

「純粋な手紙」という修辞(おもしろい)は胃の腑にすとんと落ちるが、それが、(現代には)ない、と。

たしかに、広告ちらし以外の、ちゃんとした郵便物がポストにあったとしても、「純粋な手紙」は、ない。

販促のダイレクトメール

販促のダイレクトメールは開封さえしない。

このDMを発送したところよりも、配達してくれた人に負い目を持ってしまう。

大切な書類

勤務先からの書類、生命保険の書類、このあたりは、きちんと開封する。

が、これとて次第にウェブ上で済ませつつある昨今である。

こうなると「赤いバイク」に、郵政史上一時代の終焉の光景を眺めている気にもなる。

可笑しな引力

佐伯裕子「純粋な手紙などなき」現代の世に平然とした情志が

配達ミスに可笑しな引力あるらしく繰り返す子の嘆き深かり(佐伯裕子)

『同』
「同」より

あるな、これ。こういう引力。

たしかに「可笑しな」力が働くことがあるのである。

要らないけど、こんな引力

集合ポストに部屋番号も世帯名も表示していて、なぜ間違える。
そして、なぜこれを繰り返す。

なるほどなあ

ポストに引力があったとはなあ

配達ミスに、苦情の一つも言いたくはなるが、配達員への感謝自体は惜しんでいません

揺るぎなき人生

佐伯裕子「純粋な手紙などなき」現代の世に平然とした情志が

室(へや)の灯りを青くしようか揺るぎなき人生とかが見えてくるなら(佐伯裕子)

『同』
「同」より

たとえば事務所で、どこかのご家庭で、どなたかが外に出た、と思っていると、すぐに戻ってくる人がいるものだ。
忘れものである。
誰だって忘れものの1回や2回はあろうが、ほんとうによく忘れものをする人は、1回や2回じゃきかないのである。

たとえば鍵か、スマホか、入館証か。
このあたりも、その所有者に、何か力が働いてしまうからか。

しかし、忘れものをしてしまうこと、「可笑しな引力」(に似た力)があることよりももっと大きな何かを、「室(へや)」の内に、<わたし>は、探しておいでのようだ。

でもなぜ青か。

なぜ青?

この一首は、次の2首にはさまれていて、青に、やはり何か「力」を、この人生に確かめてみたかったのではないか

自殺防止の青いライトに底知れぬ侘しさのあり駅のホームは(佐伯裕子)

青い灯がしきりにこぼす滴りのクレヨン一本忘れてゆけり(同)

畏れ慎んでしまうこと

佐伯裕子「純粋な手紙などなき」現代の世に平然とした情志が

わたくし式守は、佐伯裕子の短歌に、畏れ慎むことがままある。
人の世に平然とした情志を保っておいでなことに。

その一例に、この3首を、今回、引用してみたのである。

純粋な手紙

純粋な手紙などなき郵便の束を配るよ赤いバイクが(佐伯裕子)

佐伯裕子は、「赤いバイク」を、もはや無益と憐れんではいまい。

「純粋な手紙」とは要は心のこもった手書きの言葉といったことであろうが、その心が、現代は、運ばれることはないんだなと、まあそんなこんなの心情か。

そして、この配達であるが……

可笑しな引力

配達ミスに可笑しな引力あるらしく繰り返す子の嘆き深かり(佐伯裕子)

この世界の、これは、科学ではない。
まさか郵便局への苦情の歌でもあるまい。

しかし、歌人として生きてきた経験を基礎とした、これはこれで、この世界の真理なのではないか。
真理に手を掴まれてしまった「子」に「嘆き深かり」と。

新鮮な感度が衰えることがなく、そして

揺るぎなき人生

室(へや)の灯りを青くしようか揺るぎなき人生とかが見えてくるなら(佐伯裕子)

なぜ青に。それは些末的なことだ。
今は青の灯りではないわけだ。

青で目的を果たせなければ次はまた別の色で試すだけの話なのである。
と、思う。
(たぶん)

その灯りが何色であっても、まず灯りを点ける。そうして、ご自分の人生を、都度、試してみる。

青い灯がしきりにこぼす滴りのクレヨン一本忘れてゆけり(佐伯裕子)

<わたし>は、「クレヨン」に、違和感を持った。
あともう一息を怠らない人がいる一方で、「青い灯」は、「クレヨン」を「忘れて」しまう、そこのところに。

なに、「引力」も、「滴り」も、佐伯裕子の、ふだんの姿勢と整合しないのだろう。

佐伯裕子

佐伯裕子の、この姿勢は、わたしの、残りの人生のお手本なのである。
佐伯裕子の短歌群の、この一貫したトーンは、わたくし式守に、短歌を読むたのしさを裏切ることがない。

ご自分にあえてそれを課しておいでなのかどうか、そこまでは見通せないが、佐伯裕子は、身をめぐる世界に平然と、されど、ご自分を誇ることも弛めることもないのである。

世俗の移り変わりに、佐伯裕子は、たしかに動じている気配がない。
だからと言って、歌人としてご高名の佐伯裕子とて、これまでの道のりが平坦だったわけがなかろうに。

参考:減り続ける手紙

このような統計がある。
参考までに。

ことし7月、日本郵便が、総務省の有識者会議で示したデータに衝撃が走った。

全国に17万5000余りある郵便ポストの投かん状況を聞き取ったところ、毎月30通以下、つまり1日平均で1枚以下のポストが4万3000余り。割合にすると25.1%、実に全体の4分の1を占めたのだ。

NHK
2023.10.16
「最近、手紙出しましたか? どうするの 減り続ける郵便物」
より

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