
目 次
まぶしきゆゑに

港湾の見ゆる窓辺の一年をまぶしきゆゑに近づかざりき(大辻隆弘)
邑書林 セレクション歌人
『大辻隆弘集』
「水廊」抄
(陽だまりの木椅子)より
<正しくは「大述隆弘」です>
ほんとうは希望を後ろ手に近づいてくれた道があるのに、それを、「一年」も空しく過ごしてしまった、と。
身の刻まれる、そのような日々は、誰の過去にもあろう。
泣きながら青麦の道駆け抜けし日を歳月の密と言はねど(車窓)
今にして思えば、「泣きながら青麦の道駆け抜けし日」の方が、はるかに生きていた日々と言えそうだ。
哲学に続くもの

甲殻のうちにひろがる暗き洞、そをくらみつつ展(ひら)きゐし日よ(遠き夏の歌)
週末のかげらふ視野に枝は見え是非なく立たされてゐる樹々は(薄明の水)
若さゆえの窒息感と窒息感に抗う姿に、血が、大きな動悸に音をたてているかではないか。
これからをいかに生きるべきか、常、哲学するのである。
幼少のころを人生の序章として、若き日々は、人生の第一章である。
<わたし>に、それは、哲学の時代であった。
では
哲学の時代に続く第二章はどんな
卵殻/波留の碗

若者は、感受性がまださして摩耗していないがゆえに、かえって、日々が、その身をあわただしく過ぎる。
わかものは油たたふる卵殻のごとく危ふく暗き胸もつ(夏の物象)
神々(かみがみ)がそそぐ眠りを容(い)れながら昼しとどなる瑠璃の碗(かひ)われ(敵地)
脆くゆえに危うい

わがうちにまなざし暗き司祭ゐてすたれゆきたるものを見つむる(助手席)
若き日々が遠く去った式守に、この一首は、息がつまる。
すたれゆきたるもの?
生きていると胸をはれない
そんな自分を認められない
既にして死が忍び寄る

やすらはぬ日の往還に見しものをただ薄明の水と呼びゐき(薄明の水)
何かにダメージを受けたわけでもないのに、「やすらはぬ日の往還」が、若き日々にはある。
目つむりて夜の鞦韆に揺られをり つま先は死に没(い)りゆく速さ(風を編む)
まだ若いのに、ブランコで、「つま先は死に没(い)りゆく」体感を持ってしまった。
昼夜の黙想を持つ。
ここに「速さ」があることは、けだし真実であろう。
何か転機でもあれば、その転機が、教訓を垂れてもくれようが、そんな転機に、そうそうやすやすと出遭えるわけがない。
木蓮のはなのをはり

改めてこの一首をここに引く。
わかものは油たたふる卵殻のごとく危ふく暗き胸もつ(夏の物象)
「わかもの」は、曲がり角に、苦味と快味の見分けがつかない。
だから勇気が出ない。
うれひつつ日々ありふれば木蓮のはなのをはりも見ずて過ぎにき(雨のかぼそさ)
自分をめぐる社会線で自分との機微な交渉を持つも、ものの判断は、まだついていない。
だから、「木蓮のはなのをはりも見」えない。
ものを感受する反射さえ失った、というのか。
真夏のめまひ

蛾の翅(はね)のふるへやみゆくまでを見つ 死はぢんぢんと真夏のめまひ(遠き夏の歌)
その時々の偶然に、
たとえば蛾の死に、
若者は、身の内の希望(とか夢とか)を飽和させて、その身の内に、偶然を濾過させる。
が、「真夏のめまひ」は、前途の光明を、無情に隠してしまうのであるが。
これが行き詰まりというものか
こごえる声

紆余のなき履歴と君は呼ぶだらう こごえる声でこの年月を(夏の物象)
疾風にみどりみだれる若き日はやすらかに過ぐ思ひゐしより(眠りはわが巣)
若き日々を格調高く短歌にして、大辻隆弘は、これはこれでどうして前途の第一歩であることを、この身のあり方を模索する若者に説く。
それが、たとえ氷河の流速に等しくも、若者の再生を、大辻隆弘は、ここに保証するのである。
未来の光を
