
目 次
まどろみ

廃船を燃やす浜辺に降る雨をおもひゐるときまどろみは来つ(大辻隆弘)
邑書林 セレクション歌人
『大辻隆弘集』
「ルーノ」抄
(縷縷)より
<正しくは「大述隆弘」です>
「廃船を燃やす浜辺に降る雨」を、わたくし式守は、一言、美しいと思った。
その美しさに、わたしは、無意識に囚われたわけであるが、「まどろみ」が<わたし>に続くこともまた、無意識のなしたものかと。
「廃船を燃やす浜辺に降る雨」は、実際の出来事として目撃されたものだろうか。
目撃されただけだとすれば、解釈などどのようにも変形しようが、これが、心象風景だったとしたらどうか。
体感としては快味とは言えまい。
しかし
まどろむのである。
理屈にかなっていなかろうが、これは、理解できる。
まどろみを
世紀末の鳥

緩びたる靴下ひきあぐれば見ゆ 世紀の末のみづゆ翔(た)つ鳥(無帽)
そこに、<わたし>は、見えてしまったのである。
「世紀の末のみづ」より「翔(た)つ鳥」を。
この「世紀の末」は……、
20世紀の世紀末か。あるいは、世がなべて頽廃的になった、という意味での世紀末か。
それはわからない。
わからないが、しかし、「世紀の末」ゆえに「鳥」が不気味に目に映る。
その不気味ゆえに美しい。
結果、「鳥」の「翔(た)」つこと壮重にして、「みづ」は、濁りの澄むイメージを結んだ。
<わたし>は、足を止めたままの姿で、目で誓っていたのではないだろうか。
何を。
またの日を。
<わたし>は、「緩びたる靴下ひきあぐ」ることを節点として、新しい自分を、未来に後継したのである。
人生の苦境に剛毅の迸る跡を、大辻隆弘は、この一首に残していないか。
功利の位相では自律しない美を、大辻隆弘は、短歌というものに生み出したのではないか。
秋風

その胸にしろき譜面を押しつけるやうにして立つ秋風少女(ジュビア(雨))
なに、裏を返せば、「譜面」に、夏はまだ、曲がついていなかったわけだ。
何もなく終えた夏と秋の交差判定に迫られる。
四季のなかですぐに過ぎてしまう秋に、「少女」は、可憐だ。
案じてしまわないでもないが、「しろき譜面」があつめている、この光の眩しさよ。
未来へ影を映してない。
されば案じる必要はあるまい。
「少女」はやがて、「譜面」に、自分だけの曲を書きつけられよう。
「立つ秋風」は、「少女」に、未来を期待している。
そうも見えてアタリマエなのではないか。
「秋風」は、<わたし>でもある。
色彩を楽にたぐへて

目の見えぬ少女のために色彩を楽にたぐへて告げし人あり(縷縷)
溶け親しめる世界がここにある。
「楽」とはたとえば何だ。
これを短歌、
としてみるのはどうか。
音楽性があるではないか
一望した大自然の色彩の短歌を、
「目の見えぬ少女」の深い思い出にあてはめてみるのはどうか。
春を肌で覚える緑の光の帯の短歌を、
「目の見えぬ少女」の温かい思い出にあてはめてみるのはどうか。
具体的には、
大辻隆弘の、
次の短歌はどうか。
樹々たちの言葉のやうに八月のひかりしたたれ、ひかりはことば(夏のかけら)